1933 巨匠たちの革命──メキシコ壁画運動がもたらしたアメリカ芸術の変革
1933年、ニューヨークのロックフェラーセンターにディエゴ・リベラが描いた壁画の中にレーニンの肖像が登場し、これが大々的な騒ぎへと発展した。メキシコ壁画運動はアメリカの各所で公共の政治的壁画作品を創り出し、合衆国の政治的アヴァンギャルドにとっての先例を確立する。
メキシコ壁画運動は1920-30年代、国家の支援を受け、イデオロギーに基づいた前衛的芸術運動であり、植民地化以前のメキシコの過去を基礎としてメキシコのアイデンティティを取り戻し再創造することを第一の目標としていた。ディエゴ・マリア・リベラ(1886-1957)、ダビッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974)、ホセ・クレメンテ・オロスコ(1883-1949)は、生まれ育ったメキシコのみならず国境を超えて、とくに合衆国で巨大な影響力を行使した。
この運動が姿を現したのは、1910-20年の農地改革が終息に向かうころである。ポルフィリオ・ディアスの独裁政権や、それを支えていた大土地所有者や外国投資家に対する農民・知識人・芸術家の対立が革命に発展し、その内戦は約10年続いた。最終的に1920年に、かつて革命を指導した改革派であり芸術愛好家のアルバロ・オブレゴンが大統領となり、新しい時代への期待と楽観が広がった。
メキシコにおけるこうした文芸復興(ルネサンス)を大いに促進したのが、文部大臣ホセ・バスコンセロスの哲学的理想主義である。バスコンセロスは、公衆を教育し啓発して、新政府への支持を取り付けようとの使命を自らに課したが、そのさい公共芸術が決定的な要素を果たしうると情熱的に信じていた。政府の壁画プログラムを発足させたのはバスコンセロスであり、このため彼は実質的な意味で壁画運動の創始者となった。
バスコンセロスと革命後の政府は、芸術家と力を合わせて文化改革に取り組むことで、メキシコの人民が国家の発展、そして新たな国民的、文化的、知的アイデンティティの創造に参加できるようになると期待した。バスコンセロスや壁画運動に関わった芸術家たちの多くが考えたのは、この人民の参加を実現する最良の手段とは、メキシコに分裂をもたらした植民地期の歴史ではなく、人々が共有する植民地化以前の遺産を霊感源として用いることだった。
芸術家たちは新たな国民芸術や文化的アイデンティティを創造するという課題に胸を躍らせ、この流れに加わろうと国外からメキシコに帰国あるいは訪問した者は多かった。その先駆者の一人が、フランス生まれでメキシコの血を引くジャン・シャルロ(1898-1979)である。メキシコの芸術家にとって、どのような様式、どのような主題を選ぶかは全面的に社会的、政治的な意味を帯びているのだと、シャルロは人類学者マヌエル・ガミオの次のような指摘を引用しながら説明した:
「メキシコにおける社会階級の亀裂は、『美とは何か』に関する視点の違いに大きく起因している。先住民階級は、ヨーロッパの手で翻案されたスペイン征服以前の芸術を保存し実践している。中流階級は先住民によって再構築されたヨーロッパ芸術を保存・実践している。いわゆる貴族階級は、自らの芸術こそ純粋にヨーロッパ的だと主張している。もし中流階級と先住民が芸術に関して同じ基準を持てるようになれば、メキシコは文化面で統合されることだろう。そこにこそ国民芸術が誕生し、ナショナリズムの磐石な基盤が築かれるはずだ」
バスコンセロスはどれか個別の様式または主題を指定することはなかったが、壁画家たちはほとんどの場合、ナショナリズム的な社会主義リアリズムの一形態を採用した。スペイン以前の芸術形式を発想源に用い、メキシコの英雄や民衆を描いた。彼らの芸術を形作っていたのは、土着の伝統や人々の歴史に対する敬意の念であり、またインディオとしての自らの背景を探究する視点も含まれていた。
とはいえ、だからといってヨーロッパのモダニズムへの参与を拒んだわけではない。新世代は、自立的で社会にコミットし、一般大衆向けでかつアヴァンギャルドな新しい国民芸術を創造することを望んでいたのである。同時にここでの探究には、革命理念を、多くは読み書きのできない観客層に伝達し、彼らの意識を喚起する能力を身につけるという課題も含まれていた。
メキシコ壁画運動の重要な先駆者として、フランシスコ・ゴイティア(1882-1960)やサトゥルニノ・エラン(1887-1918)という画家たちがいた。彼らは20世紀初頭、インディオ先住民の情景やメキシコ史上の出来事を力強く、しばしば悲劇的な調子で描き出し、メキシコ特有の芸術を発達させ始めていた。版画家ホセ・グアダルペ・ポサダ(1852-1913)が新聞や版画用に制作した諷刺的なカリカチュアや鋭いプロパガンダ・イメージは、様式と内容の点で、また真に大衆的な芸術形式となっている点で、リベラやオロスコなど後の壁画家たちに大きな影響を与えた。
もう一人の重要人物として、ドクトル・アトゥル(ヘラルド・ムリジョ・コルナド、1875-1964)がいる。アカデミア・デ・サン・カルロスで教鞭をとった彼は、革命理念と反植民地主義を唱え、ルネサンス期フレスコ画の「精神的」特質を取り込んだ国民的な現代芸術をメキシコに創造する必要性を説き、学生たちを奮い立たせた。
メキシコ国内からのこうした影響に加え、イタリア・ルネサンス、キュビスム、未来主義、表現主義、ポスト印象主義、シュルレアリスム、当時ヨーロッパを席巻していた新古典主義、そしてマルクス、レーニンの思想も重要な影響を与えていた。たとえばリベラは革命期をヨーロッパ、特にパリで過ごし、アヴァンギャルドのさまざまな展開を吸収した。シケイロスは1919年、パリでリベラと合流し、二人は革命、現代芸術、メキシコ芸術を、社会的な芸術運動を通じて変容させていく必要性を語り合った。
1920年、当時メキシコ国立自治大学総長だったバスコンセロスはリベラに、イタリアでルネサンス期の芸術を研究することを提案した。それを通じて革命後のメキシコにふさわしい芸術が誕生するのではと期待したのである。リベラは17ヶ月間をかけて、ジョット、ウチェッロ、マンテーニャ、ピエロ・デラ・フランチェスカ、ミケランジェロらの作品を研究した。イタリア・ルネサンスの宗教芸術が持つ叙事詩的な大スケールと、読み書きのできない大衆に教育を施し畏敬の念を起こさせる力は、やがてメキシコ壁画運動に身を投じることになる芸術家たちにとって重要な手本となった。
バスコンセロスの壁画プログラムは1921年に発足し、彼の求めに応じてリベラはメキシコに帰国し、運動に参画した。同じ年、シケイロスは「アメリカの芸術家のためのマニフェスト」を、一号限りで終わった雑誌「ビダ・アメリカナ」に発表した。このなかでシケイロスは、「スペイン以前のアメリカのわれらが巨匠たち、並外れた文化の数々の、直接的で生き生きとした実例とともに、モニュメンタルで英雄的な芸術、人間的で公共的な芸術を創り出す」べきである、と宣言した。
1922年初頭、リベラは自身初の壁画となるメキシコシティの国立高等学校のボリバール半円講堂壁画の制作に取りかかり、また共産党に加入した。9月にはシケイロスがメキシコに帰国して共産党に加入し、オロスコの支援を得て、リベラとともに「技術労働者・画家・彫刻家連合」を設立した。1923年には、シケイロスとオロスコがそれぞれ初めて壁画の依頼を受け、これも国立高等学校のためのものであった。
新連合のもと、シケイロスは新たなマニフェストを作成し、生まれたばかりの壁画運動の革命的イデオロギーの概要を示した。壁画芸術家の大半が署名したこのマニフェストは1924年に出版された。ソヴィエト構成主義者たちの言葉づかいを反響させつつ、「社会的・政治的・美的原理宣言」は次のように高らかに主張した。
「われわれはいわゆるイーゼル絵画を拒絶する。それは貴族主義的なものだからだ。われわれはそのすべての形式におけるモニュメント芸術を称揚する。それは公共の所有物だからだ。芸術はもはや、今日そうであるのと違って、個人的な満足の表現であってはならず、万人のための、闘う教育的芸術となることを目指さねばならない。」
このマニフェストにはメキシコ壁画運動の諸原理が結晶化しており、同運動を公共的で、イデオロギー的で、教育効果のある芸術として位置づける助けとなった。壁画家たちは概して具象的な社会的リアリズム様式で制作したが、これは個々の芸術家が高度に個性的な表現形式を発展させることを妨げるものではなかった。
1920年代半ばには、「三巨匠」(リベラ、シケイロス、オロスコ)はそれぞれ独自の革命的様式と主題を確立していた。リベラは人物や出来事を緻密に配置した構図を創り出し、伝統と現代を融合させた主題を扱いながら、観衆がメキシコ人としての遺産に誇りを持つよう促し、社会主義によって実現される理想の未来を示そうとした。単純化された形態による平明で装飾的な様式で制作し、様式化された人体像と写実的な人物像を組み合わせて物語を展開した。
リベラの最も野心的なプロジェクトは、メキシコシティの国立宮殿のための『メキシコの歴史』であり、これは1929年に開始され、彼の死とともに未完のまま残された。「スペイン以前の文明から征服まで」と「征服から未来へ」の二部構成で、テオティワカンの陥落(紀元後900年頃)に始まり、カール・マルクスが理想の未来へと導くところで終わる壮大な歴史絵巻であった。
一方シケイロスは、その画歴を通じて技法や素材の実験を続け、大胆でダイナミックな壁画を描いた。作品にはシュルレアリスムを強く感じさせる要素があり、複数の視点、歪んだ形態、躍動感ある色彩、現実と幻想の混合を用いて、世界中の労働者たちの闘争を表現した。オロスコは、虐げられた人々の苦悩を痛切かつ凄惨な表現主義的社会主義リアリズムで描き出した。この特徴は国立高等学校の壁画に顕著に表れている。
この3人、特にリベラの作品は、やがて国境を越えて注目を集めるようになった。1920年代半ば以降、彼らの作品は新聞や美術関係の報道で取り上げられ、芸術家や知識人たちが彼らの仕事を見学するためにメキシコへと旅するようになった。ニューヨークでの展示機会も増え、1929年にはアーネスティーン・エヴァンスによる『ディエゴ・リベラのフレスコ』が刊行された。これはリベラについて英語で書かれた最初の本である。
こうした評価の高まりにより、3人は相次いで合衆国での作品制作を依頼され、その活動はさらに多くの観衆の目に触れることとなった。
オロスコは1930-31年にニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで、1932-34年にはニューハンプシャー州ハノーヴァーのダートマス・カレッジでフレスコを制作し、後者ではフレスコ画技法も指導した。1939年にはカリフォルニア州クレアモントのポモーナ大学でも制作を行っている。シケイロスは1932年、ロサンジェルスのシュイナード・スクール・オヴ・アートで教鞭を執り、滞在中に同校とプラザ・アート・センターのための壁画を完成させた。1935-36年にはニューヨークで「現代技法の実験室」と銘打った実験的ワークショップを開設し、絵具を浴びせかける、滴らせる、スプレーするといった革新的な技法を教えた。特筆すべきことに、後に抽象表現主義の旗手となるジャクソン・ポロックもこのワークショップに参加していた。
オロスコもシケイロスも作品や教育活動を通じて大きな影響を与えたが、最も注目を集めたのは合衆国におけるリベラの活動だった。1930年と31年にはサンフランシスコとデトロイトで展覧会を開き、カリフォルニア証券取引所、カリフォルニア・スクール・オヴ・ファイン・アーツ、そしてデトロイト美術研究所から壁画制作を依頼された。さらに1931年12月には、ニューヨーク近代美術館が開館後2番目の個展(最初はマティス)として彼を取り上げ、5万7000人近い来場者を記録する大成功を収めた。観衆はメキシコをテーマとするリベラ作品に触れるとともに、彼が新たに探求していた20世紀北米の工業風景という主題にも接することとなった。
デトロイトでの壁画「デトロイト工業」(1932-33年)では、リベラは同時代のアメリカの情景に焦点を当てた。この作品でアメリカをテーマとし、社会への考察を導入したことは、トーマス・ハート・ベントン(1889-1975)ら米国のリージョナリストや、ベン・シャーン(1898-1969)ら社会主義リアリストにとって重要な触媒となった。後にベントンは次のように述べている。
「メキシコの取り組みのなかに、芸術を古来のヒューマニズム的機能へと立ち戻らせるという、深遠かつ不可欠な行為を見出した。メキシコでは、作品に公共の場にふさわしい意味を持たせ、国民の生活を展開する行列として表現することが意識されていたが、これは私が合衆国で目指していたことと完全に呼応していた。メキシコの画家たちが公共壁画制作の機会を与えられていることを、私は羨ましく思っていた」
1932年10月、リベラはカタローニャの壁画家ホセ・マリア・セルト(1876-1945)、イギリスの芸術家フランク・ブラングウィン(1867-1956)とともに、ロックフェラー・センター内RCAビルの9点の壁画制作を委託された。石油で財を築いたロックフェラー家は世界有数の富豪であり、ジョン・D・ロックフェラー2世は多くの人々にアメリカ資本主義の化身と見なされていた。妻のアビー・アルドリッチ・ロックフェラーはニューヨーク近代美術館の創設者の一人で、夫妻はすでにリベラの作品を収集しており、1931年には彼が1928年に描いたモスクワのメーデー行進のスケッチブックを購入していた。
リベラの壁画は「希望と高邁なヴィジョンとを携えて、より良い未来を選び取ることを期待しつつ十字路に立つ人間」と題され、1933年3月に制作が開始された。しかし4月、壁画の中にレーニンの肖像が描き込まれているのが発見され、新聞雑誌で批判が巻き起こった。「ワールド・テレグラフ」紙は「リベラ、犯罪的にもRCA壁面に共産主義活動の情景描く―ロックフェラー2世が資金援助」という見出しを掲げた。
リベラの政治的傾向についてはロックフェラー夫妻も承知しており心配していたが、この事態の急展開と否定的な報道の広がりによって、彼らは極めて困難な立場に置かれた。ロックフェラー・センター建設の共同事業者たちとの関係も危うくなり、夫妻の息子でリベラとの連絡係を務めていたネルソン・ロックフェラーは次のような手紙を送った。
「あなたの胸躍る壁画の進捗を眺めておりましたところ、最近描かれた箇所に、レーニンの肖像が含まれているのに気がつきました。見事に描かれた一品です。けれども壁画中にレーニンの肖像が登場すると、多くの人々の感情を害することになるとわたしには思われます。実に気の進まぬことではありますが、現在レーニンの頭部が描かれている箇所を、どなたか他の人物の顔に差し替えていただくようお願いせざるを得ません」
リベラは四面楚歌に陥っていた。共産党からは資本家のために働いているとして魂を売り渡したと非難され、助手たちからはレーニン像の消去要請に応じればストライキを起こすと脅され、自らの立場が完全に失われたことを痛感していた。慎重な考慮の末、当時の助手の一人だったシャーンの助言も得て、レーニンの肖像は残しつつ、妥協案として構図にアメリカの英雄を数名追加することを提案した。そして、後に現実となる予言のように「構想を中途半端に損なうくらいなら、構図全体を物理的に破壊してしまう方がいい」と付け加えた。
数日後の5月9日、リベラは任を解かれ、報酬は全額支払われたものの警備員の同行のもと作業現場を去ることとなった。こうして「ロックフェラー・センターの闘い」は始まった。壁画は覆いで隠され、アメリカ内外の新聞雑誌はこの一件と、それに抗議する政治デモの様子を報じた。
1934年2月10・11日の両日にわたり、壁画は破壊された。このスキャンダルと報道によって、皮肉にもリベラはアメリカ大陸で最も有名な壁画家となり、合衆国の左派芸術家たちの英雄として位置づけられることになった。大恐慌とヨーロッパにおけるファシズムの台頭を経験したアメリカの左派芸術家たちは、ヨーロッパとヨーロッパ流の抽象芸術が衰退しているとの認識を持ち、そこから距離を取ろうとしていた。彼らが求めていたのは、アメリカ生まれの芸術、普通の人々が直面している困難を描く芸術、そしてアメリカをヨーロッパとは異なる独自のものとして表現する芸術だった。
1930年代のアメリカの芸術家たちは、フランス流のモデルに依らない独自の「アメリカ的」表現を探求し、メキシコの画家たちに範を求めた。メキシコ壁画家たちの様式は叙事詩的で国民的でありながら、決して時代に逆行するものではなく、強力なモデルとなったのである。アメリカの芸術家ミッチェル・シポリン(1910-76)は次のように述べている。
「メキシコ人教師たちが授けてくれた教えのおかげでわたしたちは、自分自身の環境が、拡がりのある充実した『現実』を備えているのだと意識するようになった。自分自身の時代と場所を描いて社会の心を動かす叙事詩的芸術に向けてモダニズムを当てはめていくということを意識するようになった」
メキシコの芸術家たちとその成果に深く感銘を受けたもう一人のアメリカ人芸術家が、ジョージ・ビドル(1885-1973)である。1933年、ビドルはフランクリン・D・ルーズベルト大統領に手紙を書き、合衆国でも政府支援による壁画プログラムを開始するよう提案した。
「メキシコの芸術家たちは壁画の分野で、イタリア・ルネサンス以来最も偉大な国民流派を産み出しております。ディエゴ・リベラがわたしに申しますには、このようなことが可能になったのはひとえに、オブレゴンがメキシコの芸術家たちに配管工と同じ賃金を与えて、政府の建物の壁に、メキシコ革命の社会理念を表現させたからだ、と。アメリカの若手芸術家たちはかつてなく鮮明に、わたしたちの国、文明が社会革命をくぐり抜けつつあることを意識しており、政府の協力が得られるならばいそいそと、こうした理念の数々を、恒久的な芸術形式のもとに表現することでありましょう。彼らは大統領が実現に身を砕いておられる社会理念に貢献し、生きたモニュメントのかたちで表現するでありましょう」
「ロックフェラー・センターの闘い」を承知していたルーズベルトは、「若い熱狂者たちが司法省の建物にレーニンの頭部を描きまくったりする」ことは御免だとコメントしつつも、ビドルの提案を検討の対象とし、これがニューディール政策における文化支援プログラムの誕生につながることとなった。
合衆国での数年の後、「三巨匠」はラテンアメリカで活動を続け、多くの追随者を得た。彼らが力強い実例として示したのは、公共的で国民的なアヴァンギャルド芸術の一類型であり、それは批判的、諷刺的でありながら、見る者に霊感を与え、理想社会を謳い上げるものだった。
彼らの芸術は批評家、パトロン、コレクター、そして一般の人々のすべてから高い評価を得た。合衆国において、このように異なる趣味を持つ人々の意見が一致するという現象は、ポップ・アートの登場まで再び見られることはなかった。
メキシコ人たちの手による壁画は、その巨大なスケールと力強い表現で、ベン・シャーンをはじめとするアメリカ人芸術家たちに大きな影響を与え、社会性を帯びた大規模な具象芸術の創造へと導いた。メキシコの壁画家たちが1930年代の芸術家に与えた影響は深く、後の世代の、政治的主題に関心を持つ芸術家たちにも、その影響は及んでいる。
さらに彼らの活動は、アイデンティティをめぐる問題に取り組む後世のさまざまな運動の先駆けともなった。1960年代末から70年代の合衆国やラテンアメリカにおけるコミュニティ壁画運動、そして現代のポストコロニアル時代のアフリカにおける都市型コミュニティ壁画運動にまで、その影響は続いているのである。