批評家への序章:梅崎幸吉を論ずるための心構え(三)
朗読とは、文字を声に出して読む以上の行為である。これは、文学作品に宿る深い意味や感情、作者の意図を、読み手の内面を経由して聴き手に伝達する芸術である。梅崎幸吉がこのテーマに取り組むとしたら、彼は朗読の本質がテキストに込められた多層的な意味を解き明かし、それを聴き手の心に響かせることにあると説くだろう。
朗読は、文字によって静止していた意味を声という形で解放する行為である。読む人の解釈によって、同一の文が異なる色彩を帯びる。ここに朗読の奥深さが存在する。それは、単に声に出して読むことを超え、作品を生き生きとさせ、聴き手に直接訴えかける能力を有している。
#梅崎幸吉 ならば、朗読を文学と人間の精神との対話の場と見做すだろう。文学作品を介して、我々は過去の偉大な思想家や作家と対話を持つことができる。朗読はその対話をより直接的かつ生動的にする。作品の言葉を自らの声で発することにより、読み手はテキストを自己の一部として吸収し、理解を深めることができる。
また、朗読は聴き手に対しても、作品を新たな視点から体験する機会を提供する。読み手の声の調子、強調、一時的な沈黙がテキストの意味を豊かにし、聴き手の想像力を刺激する。これは、単なる読書では得られない豊かな体験である。
梅崎幸吉が朗読について語るとしたら、彼は朗読が持つ文化的、教育的価値にも触れるだろう。朗読は、言葉の美しさ、リズム、響きを再発見する手段であり、聴き手を豊かな言語の世界へと誘う。それは、言葉を通じて人々の心を結びつけ、共感を生み出す力を持っている。朗読は、文学を身近に感じさせると同時に、我々の内面世界を拡張する魔法のようなものだ。
ここに至るまでの解説は、いわば無師直感流哲学の一環として、師から学ぶことなく、直感のみに依存し独自の思索を展開する試みに他ならない。梅崎幸吉を例に挙げたが、この仮説は彼に限らず、他の芸術家や詩人にも当てはまる可能性がある。ここまでの解説は、梅崎幸吉への批評であるかのように見えつつ、実際はより一般的な論議へと進む軽やかさを持つ。この軽やかさこそが、無師直感流の魅力である。
然し、仮説を立てた以上、その検証は避けられない。これは無師直感流の創始者 #武智倫太郎 の信条である。梅崎幸吉の記述を検証することで、無師直感流の理念が、書物を読まずにはいられないという #パラドックス に陥っていることが明らかになる。しかし、このパラドックスを楽しみつつ、哲学らしきことを行えるのがこの流派の特色である。哲学は、苦労して学ぶものではなく、感性を研ぎ澄ませながら楽しむべき手法に過ぎない。
それでは、梅崎幸吉が朗読に対してどのような見解を持っていたか、ジャック・デリダの脱構築の手法を用いて検証することにしよう。
#ジャック・デリダ が哲学界で高名であるのは周知の事実である。私が彼に興味を持ったのは、彼が偶然にも私の専門分野に関わるアルジェリア出身であったからだ。ここで言及するアルジェリアとは、独立前のフランス領時代を含むアルジェリアを含む。
#アルジェリア 出身で名を馳せた人物としては、デリダの他に #アルベール・カミュ がいる。1913年にアルジェリアで生まれたカミュは、フランスの哲学者、作家として名を成した。存在主義者と見なされがちであるが、カミュ自身はこのレッテルを否定していた。彼の代表作には『異邦人』や『ペスト』があり、1957年にはノーベル文学賞を受賞している。
さらに、1925年にマルティニークで生まれ、アルジェリア独立運動に深く関与した #フランツ・ファノン もいる。 #心理学者 、 #哲学者 、 #革命家 として、彼は #植民地主義 と #人種差別 に対する鋭い批判で知られる。
また、1936年にアルジェリアで生まれた #アシア・ジェバール は、作家であり映画監督としても活動している。フランス語で書かれた彼女の作品を通じて、アルジェリアの女性の生活やアイデンティティ、植民地時代及びその後の国家の変遷を探求している。
こうして見ると、本を読まずとも、一般的な知識を基に直感だけで批評する気軽さが無師直感流のアプローチであることがわかる。
#チュニジア やアルジェリアでの長期滞在を経験し、 #イブン・ハルドゥーン の生涯や #ジャック・デリダ が提唱する脱構築の手法を知識として習得した。これらは、現地にいれば自然と耳にするものであり、特別な学問を必要としない知識である。
#耳学問 は日本において、屡々浅い知識として軽視されがちである。しかし、 #コーラン が口伝で世界中に広まった事実を考えれば、耳学問が人類の思想や信仰に与える影響の大きさを見落としてはならない。キリスト、モハメッド、釈迦、ソクラテスといった歴史上の人物を例に取れば、 #口頭伝承 の力は明らかであろう。 #キリスト教 、 #イスラム教 、 #仏教 の聖典が本人によって書かれたものではないという事実からも、口伝の重要性は理解できるはずだ。
#脱構築 は、我々の思考枠組みを根本から揺さぶるものである。文字が紡ぐ意味の網を解きほぐし、言葉の背後に隠された無数の可能性を明らかにする。デリダによれば、テキストは閉じたものではなく、無限の解釈を許容する開かれた空間である。この観点から、固定された価値や意味に疑問を投げかけ、その背後に潜む可能性を照らし出す。
伝統的な二項対立を解体するデリダの試みは、我々の思考や言語がどのように制限され、一方を他方に優先させているかを問い直す。彼の理論は、これらの対立を超えて考えることを促し、言葉の背後にある深淵を探ることを提案する。
脱構築が示す『意味の遊戯』は、テキストの解釈に終わりがないこと、読み手が常に新たな解釈を生み出す可能性を持つことを意味する。これは、文学作品に対する多様な視点を開くとともに、言葉自体の魅力を再発見する機会を提供する。
デリダの理論から学ぶべきことは、世界が我々が通常考えるよりもはるかに複雑で多層的であるということだ。そして、脱構築はその複雑さを受け入れ、探求することの重要性を教えてくれる。それは、文学に限らず、我々の存在そのものに対する深い洞察を提供するものである。
ここまでの議論は無師直感流哲学の批評精神と、今回、実験的に用いる手法の説明であり、これより梅崎幸吉の言葉を借りて脱構築の概念を活用した実験の幕開けである。
梅崎幸吉がデジタル合成音声による自己の文章の朗読に関心を示すか否かをジャック・デリダの脱構築を踏まえて分析する場合、梅崎の理念とデジタル技術の使用がどのように相互作用するかを熟慮する必要がある。梅崎は『あらゆる素材、表現方法を用いる』と述べ、その理想を『創造的人間関係』に置いている。彼は『人間関係が創造的になれば芸術は不要』となると考え、そのための土台作りを自らの生き方としている。
デリダの脱構築がテキストや言葉に固有の意味や中心を疑問視し、隠された構造や前提を解体するものであるように、梅崎の朗読に対する考え方もまた、特に『生存の本質』への問いや『源言語表現としての朗読』における肉声の重要性を考慮すれば、デジタル合成音声の使用は複雑な意味合いを帯びる。
一方で、デジタル合成音声は『あらゆる素材、表現方法』の一つとして、梅崎の目指す創造的人間関係を模索する新たな手段をもたらす可能性がある。デジタル技術を通じて人間の声の限界を超えた表現が可能となり、彼の芸術の幅を広げることに寄与するかもしれない。
しかし、梅崎は肉声による表現、特にその魂や精神の直接的な顕現の重要性を強調している。朗読は彼にとって『肉声による表現』であり、この個人的で深い精神性を伝達する手段としての価値は、デジタル合成音声では完全には再現できない可能性がある。
デリダの脱構築を用いて梅崎の朗読に対する姿勢を分析すると、デジタル合成音声への彼の関心は、この技術が彼の表現の核心である『肉声』の質とどのように異なり、またそれを補完するかによって大きく異なるだろう。デジタル技術が彼の追求する『普遍的表現』や『自己認識を前提とした普遍的表現』を実現するための新たな手段となるか、彼の表現の深みと変容に寄与するかが鍵となる。
梅崎幸吉がデジタル合成音声への関心を示すか否かは、この技術が彼の追求する表現の本質や目指す『創造的人間関係』とどのように結びつくか、彼の芸術と生き方の根底にある価値観や哲学との調和によって決まる。
デジタル技術の探究は彼の実験精神に合致するものの、その使用は彼の表現の深みと真実性を保持するために慎重な検討を必要とする…ということで、 #哲学論争にはしばしば結論が出ないことがある 。この種の #不毛な議論 に対する梅崎幸吉の反応は、まさに的を射ており痛快なものである。
無師直感流哲学的な批評のアプローチを用いれば、梅崎が『ぼんじいシリーズ』などの作品を通じて、時には息抜きとして軽妙な表現を用いる様子からも、彼の理念『創造的人間関係』を優先し、あらゆる素材や表現方法を用いる姿勢が明らかになる。彼の作品がAI合成音で伝わることにも、本質的な問題は見出さない可能性が示唆される。
梅崎幸吉を深く理解していなければ、以下の作品は単なる拙劣なイラストに見えるかも知れない。しかし、梅崎が芸術家や美術家として名を成す前、自らの人生の分岐点に立った時、彼の選択肢は #芸術家 か #武術家 のどちらかであった。この事実は、梅崎が芸術と武術の根本に共通する基盤を、入門する前から理解していたことを示している。
武術を極めた者が梅崎や彼の作品、文章を見た際、その者は梅崎が卓越した武術家であることを瞬時に直感できるだろう。私自身、武術においてある程度の境地に達しているが、梅崎の書いた文章の数行を読むだけで、彼の凄みを感じ取ることができる。この視点から、梅崎が描いたイラストとコメントを見る際、彼が芸術家としてのみならず、武術家としても卓越していることを認識すると、デジタル情報の『ぼんじいシリーズ』の遊び心から生じる魂の雄叫びが伝わる作品として理解されるのである。