「チュニジアより愛をこめて」 第11話
――シディ・ブ・サイドは、チュニスの北東十キロメートル余りのところにある小さな街である。フランス植民地時代、この街に邸宅を構えていたロドルフ・デルランジェ男爵の愛する青と白だけを建物の色に使うという政令が出された。それ以来、独立を経た今でも、シディ・ブ・サイドの青と白の景観は守られ続けている。そして今、地中海を臨む高台の上のこの街は、世界中の観光客の憧れの的となっている。
世界最古のカフェと言われる、カフェ・デ・ナットの座席に、私は胡座をかいて座っていた。名物である松の実入りのミントティーは甘すぎて、努力してできるだけ飲もうとしたのだけれど、まだグラスに半分以上残っている。
この街に、私はもう三日も滞在していた。ここの風、音、匂いは、不思議と懐かしいような気がされる。チュニスから電車を使って到着したその日から、私はB&B形式の格安ホテルに泊まり、ひとりで街中を散策した。カルタゴの遺跡や、古代ローマの入浴場跡など、少し足を伸ばせば観光して回るところはいくらでもあるのだが、なぜかここで過ごしていることが心地良くて、私の足は一向に街の外に向かわないのだった。
暦の上では、秋も深まる時期だった。帰路の経由地であるヨーロッパはさぞ冷え込むようになっていることだろう。――シディ・ブ・サイドの街を散策する間、私はある人のことを思った。その人は今も、パリに暮らしている。これまでに三十回、彼はヨーロッパの秋を経験しているし、この先の数十回も、同じ場所でその季節を過ごすのだろう。甘くて苦い、胸の奥をチクリと刺すような思い出が甦った。
あの一緒に過ごした時間が、その中の特別な秋のひとつになればいい。そう思った。……今、何をしているのだろう、あの人は……。心の中で突き放したつもりが、逆に無償に会いたくなった。けれど私はその思いを打ち消した。今、彼が何をしているかなんて、容易に想像がつく。彼の目の前には、心と体に傷を負って、瀕死の状態で、彼の助けを必要としている相手がいるのだ。その人達の間に自分が入っていけるわけがないことはわかりきっていた。
だから私はそのことを考えずに済むように、ただシディ・ブ・サイドの街中を歩き回った。お土産物屋の並ぶ街の中心部はもちろん、そこからも離れて、海沿いの道や住宅地の中も、私は歩きに歩いた。パリの寒気は、ここまでは届いて来なかった。十一月も終わろうとしているというのに、ここチュニジアではいまだに太陽が幅を利かせていた。日中外を歩くと、時々どこかに秋の気配を孕んだ風が吹くものの、この地中海沿岸地域に特有の強い太陽に照らされると、まだまだ肌が焼かれるような感じがし、汗ばんでさえくるのだった。
――カフェの店員を呼ぼうと目を上げると、ぎこちない足取りで入って来る人が目に入った。観光客らしかったが、チュニジアの名産品である鳥籠の特大のものを抱えていて、そのせいで両手が塞がっているのでそのような歩き方になるらしかった。美しい装飾の見事な造りだけれど、重いし、飛行機に持ち込むこともできないだろうから預かり手荷物になるだろう。そうなると、輸送の段階で歪んだり壊れたり、かなりのダメージは免れない。普通、観光客は誰もそんな鳥籠を買わない。
その人が段々近づいてきて、どうやらアジア人らしいということがわかった時、私達は目を合わせて互いに驚いた。
「やあ、こんにちは。またお会いしましたね」
そう言って、人懐っこい柔和な笑顔を浮かべたのは、台湾から来た占い師、劉だった。
「本当に。奇遇ですね」
私はそう言って、どうぞと招くように掌を上に向けて、向かいの席を指した。私の座っているのは室内の座席で、突き刺すようなチュニジアの日差しとは真反対の薄暗がりだった。日盛りの時間帯を、鳥籠を抱えてどれくらい歩いたのか、劉は顔を真っ赤に火照らせていた。彼は鳥籠を下ろして横に置き、私がしているのと同じように胡座をかくと、ふーっと長い息をついた。そして、近づいてきた店員に、ボガというサイダーに似た炭酸飲料を頼んだ。
「随分大きな鳥籠を買われたんですね」
私はこみ上げそうになる笑いをこらえながら言った。カフェ・デ・ナットに入るには段数の多い急な階段を上らなければならないというのに、彼はこの鳥籠を抱えて上ってきたのだ。チュニスのホテルで初めて会ったときしかり、この人には何か、笑いを誘わずにはおかないユーモラスな雰囲気がつきまとっていた。
「台湾に帰ったら、この中に私の鳥を入れるんです」
劉は言った。
「――鳥占いの?」
ちょっとした好奇心を揺り動かされながら、私は言った。
「そうです。今入れている籠がこんなに小さくてね、ちょっと可哀想に思ってたもんで。これならあの子も広々飛び回れます。見て下さい、この高さだから、地面の上に置いても十分目立つでしょう? お客さんへのいいアピールにもなります」
劉は、自分の隣に置いた鳥籠を、両手で愛おしそうに撫でた。木とアルミのワイヤーを組み合わせて作られた精巧な細工のそれは、上のドーム型になっている部分が座っている彼の頭の高さまであった。
「それを台湾まで持って帰るのは、大変でしょうね」
私は言った。からかうと言うよりは、純粋な好奇心から出た言葉だった。ところが、意外に彼はあっけなく、
「なに、何とかなりますよ」
と答えた。
「でも……」
私が言いかけると、遮るように
「何ごともね、やろうとすればできるものなんですよ。……問題は、どれだけそれをやりたいかという熱意。全てはそれにかかっているんです。私は何としてでもこの鳥籠を無事に台湾まで持って帰ります。私の可愛い鳥を入れてやらなければいけませんからね。……何ですか。疑うんなら、日本に帰った後、私がこの鳥籠を使っているところを見にいらっしゃい」
そう言って、彼は笑いながら胸ポケットから名刺を取り出した。名前と住所、電話番号にメールアドレスがきちんと書かれていた。
「私は台南にいます」
いつでも訪ねて来て下さい、と彼が言った時、ボガがテーブルに運ばれてきた。彼は待ちかねたと言わんばかりに氷を満たしたグラスにそれを注ぐと、ひと息に飲み干した。
「ああ、生き返りました」
気持ち良さそうにそう言うと、やっと落ち着いたという様子で、背後の壁に寄りかかった。さっきの突っかかるような物言いは、営業の為に彼が仕掛けた長広舌だったのかと受け取った名刺を眺めながら考えていると、彼はすっかり寛いだような態度になって、話し始めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?