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短編小説「断層」

 その日は祖母の初盆であった。毎年、台本を読むかのように聞こえてくる「記録的猛暑」という文言を受け流しながら、私はいつまで待っても来ない祖父の携帯に電話をかけた。祖父は相変わらず電話に出ない。

「忙しい人やからね…」

 と、いつものように呟く母を横目に、もう30分も前に着いている住職はクーラーの効いた部屋で二度目の汗を流す。

「途中でお帰りになるかも知れませんし、取り敢えず始めましょうか。南無阿弥陀仏…」

 住職の発言に、私はあわてて発信音の鳴り響く受話器を置き、畳の上に膝を折る。脚の痺れを気にして、モゾモゾと定位置を探し回っては、「こらっ」と父に囁かれるお決まりもないままに、仕事を終えた住職は去って行った。

 地元に一つだけある大病院から電話があったのは、そんな忙しく、どこか非日常な一日の夕刻であった。

 祖父は地元ではちょっとした名士であった。中学教師としてその半生を費やし、校長としてキャリアを終えた。しかし、元来上昇志向の強かった祖父は、あろうことか教育者であった時の人脈をもとに市議会議員選挙に出馬し、見事当選を果たした。
 その日から、祖母は身に覚えのない身内への対応に悩まされたという。休日の度に賑わう祖父母宅の光景を、当時まだ幼かった私もよく覚えている。そんな祖父が、熱中症で死んだ。


 「明日の18時からでございますか?はあ、ああ、ええと。それでしたら明後日がご葬儀ということで。あー、明後日の方がどうも…。ええ、うーん。はい、なんとかします。はい、それじゃっ」

 戸惑いながらも慌しい住職との打ち合わせの電話が終わる頃、近隣に住む二、三の親類が集まってきた。幸いにも法事の用意が済んでいるとはいえ、葬儀社への依頼や有縁の人々への連絡、通夜後に振舞う食事の用意など、なすべき事は山積みである。

「札幌のおっちゃんは来れんらしいわ。そっちでよろしく頼むってさ」

「まあみんな歳やからなあ…。こんなご時世やし、誰も来よらんやろ」

「あっ、あの人に連絡せんでええん?ほら、あの、遠縁の。なんか、毎年ハムやら果物やらようさん持って、遊びに来てた人おったやん」

 結局、祖父の葬儀は近場の身内だけで、ごく小規模に行う事にした。「小さなお葬式ってやつや」と、軽口を叩く叔父は、新任の喪主としての重責から少し解放されたかの様にも見えた。
 その日から葬儀が終わるまでの時間は実にゆっくりとしたもので、祖母の葬儀の時の様な忙しさは感じなかった。

 いや、寧ろ私には、祖母の時とは、どこか異なる虚しさが、私の身体を、断続的に包み込むのに、ただ、ただ畳のいぐさの解れを凝視するしか、どうしようもない、そんな、そんな重苦しく、耐え難い、時間であった。


 すっかりと間延びしていた空気感の中で、私たちが「祖父」の身内であることを再認識したのは、祖父に寄せられた無数の供物を受け取った時であった。決まって、式へ主席できなかったことに対するお詫びと、当日何をしていたかの報告が添えられているそれらは、初七日法要が終わるまでひっきりなしに配達された。

 不意を突かれて狼狽した私たちは、ただそれらを受け取った順に積み上げ、壁を建造するためのプロレタリアートであった。途中、祖父の教え子が数人訪ねて来た時などは、これを神の使いとばかりに有り難がり、この「アットホームな職場」への就職を促すなどしていた。

 「やっぱり、お義父さんは偉い人だったんだね」

 呆然と、それでいて少し熱った表情の父に、「そうね。ほんと、お父さんは、スゴい人…、やったからね」と、母はいつものように呟く。
 祖父の人生の堆積として築かれた山脈を前に、私自身、母の顔色を伺いながらも、口元に走るむず痒さを抑えることが出来なかった。

「ああ、もう。どないしたええんじゃ、これ。ほら、見てみ、これ。こんな良えもん生きてる時やって貰ったことないで?骨んなった後でやったってしゃーないがな。骨壺ん中入れてみる?今からでも骨丈夫なるかもせんで」

 新たな荷物を抱え、勢いよく捲し立てる叔父がやって来るのが早かったか、私は笑みを湛えながら、叔父の持つ荷物を受け取りに行った。
 手に持つその一つ一つの重さに、生前の祖父の姿を噛み締め、反芻するのであった。


 日は暮れ、風が立つ。
 木々も鳴き、虫の声。
 夜風に揺られて、風鈴の音が聞こえてくる。


「ああ、久しぶりに、良え風が吹くなあ…」
「…親父も、なにもあんな暑い盛りに、墓掃除なんてせんでも、良かったのになあ」

 縁側で独り缶ビールを流し込む叔父は、普段の軽薄さとは打って変わった、どこか感じ入ったような背中で…。いや、そんな事はどうでもよい。

「墓掃除って、なに?」

「ああ、言うてなかったっけ。親父、墓の前で倒れてたんやと。お袋の初盆て事もあったからやろうけど、らしくない事して、死んでもてなあ」

 刹那、マグニチュード5.0の衝撃が私の足下を揺るがした。慣れ親しんでいたはずの十畳間は途端に私の知らない何か歪なものとして崩れ去っていく。
 私は、ふら、ふらと、堪らず供物の山の前にへたり込んだ。

「おい!どないしたんや、急に…」

 少し戸惑った叔父の声に、はっと我に帰って、「今日も、一日、疲れた、わ」と口を濁した。

「なんやねん、ほんま。あーあー、せっかく積んだもん崩しよって。ほんま、そそっかしいなあ」

 振り向くと、確かに積み上げられた山の一画が崩れている。そんなにも大袈裟に倒れ込んだつもりはない。混乱の中で渦巻く感情を明確にできないまま、取り繕うかのように、私は瞬時にその山を見下ろした。

 一本の女郎花が、なおも形を留める山の一画に、今を盛りと咲き誇っている。


 私はどこか懐かしい、栗の粒のようなそれを拾い上げ、せいぜい私の腰ほどしかなくなった山の頂きに目を向けた。そこに記されている名は、確かにあの日、心よく労働に従事してくれた祖父の教え子のものである。
 女郎花を境としたその山は、全て、数少ない耳で覚えた名前たちで構成されていた。

「そういえば、お父さんは女郎花が好きやったって、お母さんが昔言ってたわ。よくお母さんにも、学校の帰りに摘んできてくれたって」

 そう言うと、母は花瓶を探しに部屋を出た。私は叔父に急き立てられながら、畳の上に散らばった供物をかき集める。仰々しい名前の記されたそれらの塊を、私はそっと、無数の供物の片隅に置いた。

 飾り付けられた女郎花を前に、私は今一度仏壇に手を合わす。ゆらゆらと、それでも一直線に立ち昇る線香の煙を目で追って、大仰な供物の壁に目を移した。一画に、ぽっかりと、それでいて堂々とした山が聳え立っている。
 均一に築かれた壁の調和を乱すその山は、なんとも親しみやすく、私に包み込むような安心感を与えてくれるのであった。

 私の祖父は、地元ではちょっとした名士であった。中学教師としてその半生を費やし、校長としてキャリアを終えた。そのキャリアの中で、祖父はよく人のために尽くし、多くの人から慕われた。しかし、元来責任感の強かった祖父は市議会議員選挙に出馬し、そうした人たちの多大な支援のもとで見事当選を果たした。
 その日から、祖父は様々な人と交流を持つようになったけれど、毎月恒例であった多くの教え子たちとの会食は、必ずおこなっていたという。

 私は、本当の意味で、そんな祖父のようになりたいと思った。

「断層」(完)

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