日本軍の組織図――編成・戦闘序列・師団配備数で知る日本陸軍の決戦
どうもミリタリーサークル
『徒華新書』です。
本日のミリしら(ミリタリー実は知らない話)です。
@adabanasinsyo
本日は久保智樹がお送りします。
@adabana_kubo
日露戦争では第1から第4軍までの4つの軍が満州軍総司令部の下にありました。
ところで、日清戦争はどうだったのでしょうか?
また、太平洋戦争における南方作戦には何個軍使われたのでしょうか?
本日はそんな、実は知らない日本陸軍の組織図(戦闘序列)のお話をいたします。
本日のお品書きです。
戦闘序列とは何ぞや
戦闘序列とは軍隊の組織図です。
命令一下一糸乱れず動く軍隊を作るためには誰が誰に命令するのかを明確にする必要があります。専門的な用語でいえば指揮系統です。
日本軍の戦時における指揮系統が「戦闘序列」です。
戦争や事変が始まると日本軍はこの戦闘序列を発布します。
本日は日本軍がどのような戦闘序列で戦ったのかについて語っていきます。
これを知る意義を素人なりに語らせてもらうならば次の点です。
それは戦争の全体像を見る目が養えることです。
例えば秋山支隊や一木支隊といった有名な部隊がいます。
この部隊の活躍について知りたければ、私なんかより詳しい人がたくさんいます。
ですが、この部隊は誰のどのような命令の下で動いたのかという視点で語られることは意外と少ないと感じています。
また、太平洋戦争においてアメリカ陸軍にはダグラスマッカーサー司令官がいたことはご存知でしょう。では翻って太平洋における日本陸軍の司令官とは誰だったのか皆様はすぐに思い浮かべることができますか。
軍隊というものは上から下に命令の出るシステムです。
その命令がどのように出ていたのかは軍事を知る上でのよき道しるべになるはずです。
本日はそんな戦闘序列の歴史を明治維新から日本の敗戦までじっくり眺めていきます。
ぜひお付き合いください。
明治政府の建軍
藩兵から鎮台そして師団に
明治維新。
始まりはいつか、終わりはいつか。
それは歴史学にお任せします。
戦闘序列を語るうえで重要な点だけを搔い摘んで失礼します。
1853年黒船の来航によって江戸幕府は混乱に陥りました。
そしてなんやかんやあって、1867年徳川慶喜将軍は大政奉還を行い大制復古の大号令によって幕府は廃止され、天皇による統治が復活しました。
しかし翌1868年これを良しとしない佐幕派と明治政府の間で戊辰戦争が勃発します。
この戊辰戦争では双方ともに藩兵が主力でした。お侍様です。
錦の御旗を掲げた明治政府軍が函館にて幕府軍を打ち破ったことで1869年戊辰戦争は終結しました。時は明治2年のことです。
そんな明治政府が藩兵によらない独自の軍隊を建設したのは明治4年のことでした。
御親兵。天皇を守るロイヤルガード。
後の近衛師団となるこの部隊が設立されたのが1871年のことです。
御親兵はしかし、藩兵の延長でもありました。
中核となったのは薩摩の藩兵でした。
そしてこの年廃藩置県が行われ、各藩の兵隊は明治政府の管理下に置かれます。
この兵力で組織されたのが鎮台です。
この鎮台は各藩の寄り合い所帯でした。
そこに明治5年(1872年)の徴兵の詔書が発布され、明治6年(1873)1月10日に徴兵令が施行され、それまで兵役と無縁だった武士以外の一般の人たちもも徴兵されて兵隊も加わります。
この鎮台は明治6年1月に増設されます。
新たに名古屋と九州にも鎮台が設置されました。
これにより明治政府は日本の津々浦々ににらみが利くようになります。
この明治6年の鎮台条例において鎮台の目的は、
「日本侵攻を企図する外敵の「寇賊」と政府転覆を企てる「草賊」に備える」
とされていました。
作られた鎮台は幸か不幸かすぐに日の目を見ます。
西郷隆盛率いる不平士族が暴発した西南戦争が起こってしまったからです。
明治政府は鎮台を基盤として、歩兵14個連隊の3万4千人を動員しました。
結果的に、鎮台から投入された兵隊が、薩摩隼人の侍たちを打ち破りました。
この鎮台制は明治17年(1884年)に西欧列強のような師団に改められます。
その基盤となったのはもちろん鎮台でした。
明治政府の軍隊は、各藩の兵隊から出発し、藩兵と徴兵軍の混在した鎮台を作り、そして徴兵制による国民軍の師団へと変化していきました。
師団の編成
さて、師団になったことで何が変わるのでしょうか。
まずは具体的な師団の編成から見ていきましょう。
さて、一番重要なのは陸戦の主役である歩兵です。
師団には2つの歩兵旅団があります。
この下に連隊が2つ、大隊が3つ、中隊が4つ、小隊も4つあります。
連隊で2,896人、大隊で962人、中隊で222人となっています。
ただし旅団は命令を出す司令部要員14人だけです。
師団の定数は全て合わせて18,500人となっています。
師団(Division)の語源はフランス語で分割できるモノということだそうです。
師団は2つの旅団に分割して2つの地域で同時に戦うことができます。
また旅団も2つの連隊をもつので同じことができます。
連隊の司令官は3つの大隊を持っているので3つの地域で同時に戦うということが可能でしょうし、時には2つの地域で戦い1個を予備として連隊長が必要な時まで温存することもあります。
とかく、師団という単位に兵隊をまとめることで軍隊はそれを分割して柔軟に戦いやすくなります。
師団は分割可能であることは理解いただけたと思います。
他にも師団には利点があります。
それは近代戦に必要な歩騎砲の連携した三兵戦術が行える兵団である点です。
三兵戦術の起源をスウェーデンのグスタフ・アドルフに見るか、ドイツのフリードリヒ大王に見るか、はたまたフランスのナポレオン皇帝に見るかは難しい問題なので脇に置きます。
しかし近代戦において確かなことは、歩兵は砲兵や騎兵と言った兵科を組み合わせることで強力な戦闘力を発揮できることです。この原則を守ったからこそ彼らは軍事史に名が残っているわけです。
具体的には、歩兵の突撃の前に砲兵で敵を撃砕することや、潰走する敵軍の側面や背後に騎兵を投入し一気に突き崩すことなどが可能となるのです。
改めて師団の編成図を見ていただきたいのですが、師団にはこの砲兵も騎兵もいます。
実際の運用になると師団の指揮官は2パターンの運用を行います。
ひとつは師団長自身が、騎兵や砲兵に命令を与え歩兵を支援することです。
もうひとつは師団の持つ砲兵や騎兵を歩兵のときのように分割して、旅団長や連隊長に指揮権を預けることです。
この記事ではこの後、度々「編成」という言葉を使いますが、編成とはこの師団の部隊を分割して戦略単位の師団を戦術単位に組み合わせることです。
また師団は「戦略単位」と呼ばれることがあります。
何が戦略的なのでしょうか。
ひとつは独自に「輜重(しちょう)部隊」を保有していることです。
師団は輜重部隊を独自に保有している点で旅団と異なります。
この輜重兵とは補給部隊のことです。
師団は輜重部隊を持つことで、補給物資が後方から送られてきた際に、それを適切に配下の部隊に分配する能力があります。その為、後方からの補給が続けている限り師団は独力で戦い続けられます。ゆえに師団とは戦略単位なのです。この性質は自己完結性とも言われます。
歩兵師団の特徴は、分割可能で、三兵戦術が行えるゆえに、柔軟かつ高い火力が発揮でき、加えて独力で戦い続けられる自己完結性を持つ兵団であることです。
だから西欧列強は師団を運用し、文明開化した日本は西欧をまねて鎮台を師団にしたのです。
日清戦争の戦闘序列
日清戦争の起こりと戦闘序列
1894年8月1日に日本は清国に宣戦布告しました。
日清の間での朝鮮半島における支配権をめぐる対立が戦争の原因でした。
宣戦布告に先立ち1894年6月5日大本営の設置が決定されます。
大本営。天皇直属の戦時における統帥の最高機関です。
陸海軍は戦時においてはこの大本営の指揮下に置かれます。
その下に陸海軍の部隊が編成されました。
大本営陸軍部は有栖川宮 熾仁親王が、海軍部は樺山 資紀がその職にありました。
以下は陸軍の日清戦争における戦闘序列です。
ただし最初からこのような形だったのではなく、戦局の推移によって徐々に編成が改められていきます。
次節ではどのように戦闘序列が形成されたのかを追いかけます。
日清戦争の推移と戦闘序列の形成
日清戦争時開戦時には日本は7個師団を保有していました。(近衛師団+6個師団)
提示したのは、1894年10月頃の戦闘序列です。
先ほど師団の構成は簡単に説明しましたが第12混成旅団という見慣れない部隊があるはずです。この部隊は第6師団の半数に当たる1個旅団を基幹として師団の持つ騎兵や砲兵、工兵、補給部隊などからなる部隊です。
第12旅団に第6師団の諸兵科が混ざっているので、混成第12旅団となるわけです。
要するに、混成とは「歩兵以外もいる部隊」ということです。
なぜこうするのかは師団の特徴を思い出してください。
三兵戦術を行うことが近代戦にとって重要であるがゆえに、それが可能なように騎兵や砲兵を編成して旅団を送り出したのです。またこの混成第12旅団には師団の輜重部隊も与えられており、自己完結性も持っており戦略単位として師団のように扱えました。
またこの表には記載されていない近衛師団、第4師団、第6師団の残余は動員中であったり戦略予備として本土に後置されました。そして戦争の推移とともにこれらの部隊も戦闘序列に組み込まれていきます。
日清戦争の発端である東学党の乱に際して第5師団に動員がかかり、混成第9旅団が朝鮮に派兵されました。
ここでもまた混成旅団が登場します。旅団は時代や国によっては師団同様に戦略単位として見られる規模の部隊です。混成旅団とすれば近代戦にも十分通用します。
朝鮮における緊張を受けて、まずは様子見に動かしやすい単位の混成旅団を編成し朝鮮に投入しました。
さて、この混成第9旅団は7月23日に朝鮮の漢城を占領すると牙山に展開する清国軍に攻撃を開始します。成歓の戦いです。
成歓の戦いにおいて混成第9旅団は清国軍を圧倒し、日本側死傷者100名以下なのに対して清国は500名以上の損失を出しました。
この事件を契機として日清関係は緊張が頂点に達し、1894年8月1日に日本が宣戦布告しました。
そして9月1日に山県有朋大将の下で第一軍が編成されました。
混成第9旅団の母体である第5師団ならびに第3師団が指揮下に組み込まれました。
複数の師団を運用するのが「軍」となります。
7個の師団を本土の大本営が直接命令を下すのは煩雑でありタイムラグもありました。
そのため、師団と大本営の間に中間管理職の軍が編成されます。
第一軍は9月には平壌を攻略しました。第一軍は勢いそのままに10月25日に朝鮮と清国の国境沿いの鴨緑江を占領して清国本土満州の地に流れ込みます。
時間は少し戻り、海では伊東祐亨中将麾下の連合艦隊が9月16日に清国海軍に決戦を挑んだ黄海海戦で勝利を手にします。これにより制海権が確立しました。
制海権を握ったことで朝鮮半島への上陸作戦の目途が立ち、日本陸軍は次の作戦のために第二軍を編成します。1894年10月大山巌大将の下で第1師団ならびに第6師団から抽出された第12混成旅団を基幹として編成されました。
第二軍の目的は旅順半島の攻略でした。第二軍は日本を出発すると10月24日金州城に上陸、11月6日に同地を攻略し、旅順をにらむ位置につきました。これを受けて第2師団が第二軍に編入され本土から出動します。しかし第二軍は増援を待たず第1師団が11月21日に旅順要塞に総攻撃をかけわずか1日で同地を陥落させました。
順調に進撃した第一軍および第二軍は1894年の内に朝鮮半島の全域を確保することに成功し、次の作戦が大本営より発令されます。作戦は次のようなものでした。
第一軍は海城に進撃し北京への進路を開くこと。
第二軍は山東半島に上陸し清国北洋艦隊の根拠地である威海衛を攻略すること。
第二軍の作戦実施に当たっては第6師団の残りが増援として送られました。これにより混成第12旅団は本隊と合流しましたが、実体としては増援の第11旅団が混成第12旅団の任務を引き継ぐ形であり、第12旅団は再編と後方警備の任につきました。
第二軍は1月20日海軍の援護の下で第2、第6師団の第11旅団を基幹とした混成第11旅団を山東半島に上陸させます。30日には威海衛に到達しました。そして清国の抵抗はわずか半日しかもたず北洋艦隊の根拠地威海衛は陥落します。陸上における抵抗は僅かでしたが、清国海軍はよく戦いました。
北洋艦隊の旗艦「定遠」は陸上に対して砲撃を続け、驚異的なことに孤立無援の中で2月11日まで抵抗をつづけました。しかし遂に限界を迎え丁汝昌提督は服毒自決の上で全軍の降伏を命令しました。これにより第二軍の目標は達成されました。
ところ変わって、第一軍の第3師団は12月13日に作戦目標の海城を制圧しましたが、奪還を目指す清国軍との激しい戦闘を展開することとなりました。これを受けて第一軍は第5師団を増援に向かわせるとともに、大本営は旅順攻略に参加していない第二軍の第1師団をも増援に送りました。最終的にこの3個師団によって3月までに海城を中心とした地域を確保することに成功しました。首都北京を脅かす位置を占領したのです。
また近衛師団は台湾平定に、第4師団は旅順警備のためにそれぞれ展開しました。第4師団は後に第二軍の指揮下に置かれ直隷決戦のための準備をしたが、この決戦準備が講和の決め手となり1895年4月17日に下関条約が締結され終戦となった。
各師団は順次復員し、1896年4月1日大本営は解散となりました。
日清戦争の勝利の要因は日本軍が近代的な「師団」を運用したことでしょう。
対する清国軍は装備は西洋式だが編成は前近代的でした。
師団ゆえに柔軟に運用でき、かつ清国よりも効率的に火力を発揮できる部隊が7個が自己完結性をもって戦場に展開したがゆえに攻守において主導権を握れたことで日本は勝利を手にしたと言えます。
日露戦争の戦闘序列
戦間期の軍備増強と師団改編
日清戦争によって日本は朝鮮における宗主権を確立するとともに多額の賠償金を獲得しました。この賠償金は八幡製鉄所などの近代化の原資になったと同時に、軍備拡大の貴重な原資となりました。
帝国陸軍は朝鮮をロシアから防衛するために陸軍師団数を平時で14個にまで拡大することを求めましたた。戦時には追加動員をかけて20個師団とする構想でした。
しかし帝国海軍の「六六艦隊」構想と予算的な競合が生じ、陸軍としても制海権確保は作戦の前提となるためこれを優先することを決め、平時13個師団へ拡大することで妥協した。
この「六六艦隊」構想ならびに師団増設は明治28年(1895年)の帝国議会で承認されました。
この予算措置に基づいて部隊が新編され、明治31年(1898年)までに完了します。
以下が師団とその配備先です。
またこの時期師団編成も改編がおこなわれました。
日清戦争からの主だった変更点は2点。
ひとつは、騎兵が大隊から連隊に改編されたことです。
もうひとつは、野砲兵連隊が4個野砲中隊・2個山砲中隊から、6個野砲中隊に装備が変更されたことです。
騎兵は連隊に改編されましたが、建制上3個中隊であり増大していません。むしろ細かくみると連隊の馬の保有頭数は大体に比べて4頭減っています。
ではなぜ連隊に改められたのでしょうか。それは騎兵旅団が編成されたためです。騎兵を旅団結節させるうえで建付けの上では連隊とする方がおさまりが良かったのではと考えられます。この2つの騎兵旅団は平時においては歩兵師団の管理下に置かれましたが、日露戦争では独立の部隊として戦闘に参加することがしばしばありました。
ついで野砲兵連隊の改変です。
日本軍が野砲と山砲を装備していたのは軍内の意見対立の為です。日清戦争以前は軽量な山砲と威力のある野砲のどちらに装備を統一するかを巡り意見対立がありました。その折衷案として日清戦争では野砲と山砲を両方とも装備することとなりました。しかし日清戦争によって野砲による統一が陸軍の方針となったことが、この変更の背景です。
野砲兵連隊は装備の統一のみならず量的にも増強されています。日清戦争では連隊当たり野砲16門・山砲8門の計24門を装備していました。それに対して改編後の野砲兵連隊では連隊当たり36門の野砲を装備していました。
ただし、山砲がまったくなくなったわけではありません。
開戦の初動に投入する上陸師団に指定された第5、第9、第11師団の内、後者二つの師団は建制上山砲を装備していました。この2個師団の保有する山砲は2個大隊36門と野砲兵連隊と変わらないものです。
この装備の違いは、上陸師団として機動的に運用する師団にはより軽量な山砲が選定されたと推測されます。
また砲兵について言えば決戦正面の火力増強のために2個砲兵旅団が新設されました。加えて、東京湾、由良、佐世保、下関の4つの要塞とその要塞砲連隊が編成されています。
日露戦争の経緯と戦闘序列
1900年義和団事件が勃発します。
清国における外国人排斥を目的とした大規模な武装蜂起です。
これに対応するため列強は多国籍軍を派遣します。
義和団事件は1901年までには鎮圧されたのですが、ロシア軍は中国への駐留を継続しました。これを受けてにわかにロシア脅威論が強まります。
1902年極東におけるパワーバランスを取るためイギリスは日本との間で日英同盟を締結します。
その後もロシア軍は中国満州地域を中心に軍事力を増強し日本が宗主権を持つ朝鮮が脅かされる事態となりました。陸上からの脅威もさることながらロシアは満州の旅順に租借地を有していて、そこには旅順艦隊もおり海上においても日本を圧迫する存在でした。
日本政府は外交による事態解決を模索したものの1904年2月6日に軍事行動に踏み切りました。2月10日にロシアに対し宣戦布告を行い、翌11日に大本営が設置されます。
本戦闘序列は概ね大陸に兵力展開の完了した11月段階のものです。
日清戦争の頃と同じく戦闘序列は徐々に形成されていきました。
前述の通り騎兵旅団は師団の管理を離れ、各軍に直接隷属しました。
また、戦時動員により後備役を動員しました。
後備役とは徴兵を受けて5年以内の人間を指します。
年齢は高いものの兵役経験があり短期間の訓練で前線に投入可能でした。
日本軍の常設師団は13個でしたが、戦時には20個を整備することとなっていたため、後備役は開戦と同時に多数招集されました。
さて軍事行動を開始した日本軍はどのように作戦を展開させ、また戦闘序列を発布したのでしょうか。
まず開戦と同時に3個師団からなる第一軍が組織されます。司令官は黒木為楨大将です。
この部隊は開戦と同時に仁川に上陸し朝鮮の京城を制圧し北進を開始します。
第一軍はそのまま北進し朝鮮と満州の国境の鴨緑江を渡河し5月1日に満州の地に入りました。
第二軍は3月に動員され5月5日に旅順近郊に上陸しました。司令官は奥保鞏大将です。
この部隊は当初3個師団からなり上陸直後にロシア軍と接触し、5月25日の南山の戦い、6月14日得利寺の戦いが起こります。第二軍はこの2つの戦いで勝利を収め満州内陸部に進出し、第一軍との合流を図りました。
第三軍は4月に動員され、6月4日に旅順に展開しました。目的は旅順要塞の攻略でした。
司令官は乃木希典大将です。
この乃木希典と第三軍は軍事に興味のある人ならば誰しも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。活躍もさることならが明治天皇の崩御の際に後を追って殉死したことからも日本陸軍を語る上では外せない人物です。
旅順要塞への攻撃は激戦を極め、8月19日の第一次総攻撃、10月26日の第二次総攻撃は失敗に終わり、11月26日の第三次総攻撃で203高地を奪取したことで決着しました。
当初は第1・第9・第11師団の三師団の編成でしたが、2度の総攻撃で大きな損害を被り、第7師団と第14師団が増援に加わりました。第14師団は戦時動員した師団であり練度に不安が残る点があり主攻勢には用いられませんでした。
これに加えて要塞砲兵連隊の保有する28センチ砲18門が攻城砲兵司令部として編成され急遽旅順要塞攻略に転用されました。
第4軍は第10軍と第10後備旅団に加えて第一軍から第5師団が編入されます。司令官は野津道貫大将。7月に析木城の戦いで勝利を収めました。
戦闘序列における日清戦争と日露戦争の違いには「満州軍総司令部」の存在があります。日清戦争に比べて2倍の4個に、師団数は6個から13個師団・6個旅団と3倍の体制となっており、大本営が本土から管理することは限界がありました。そこで大山巌大将を頂点とした「満州軍総司令部」を編成しました。総司令部参謀総長は児玉源太郎です。
遼陽会戦で第一軍がロシア軍を破ると大山巌元帥は9月7日に遼陽に入城し以後この地より全軍を指揮します。10月8日にロシア軍が攻撃を開始したことで始まった沙河会戦において第一軍および第二軍を指揮し反撃を食い止めることに成功しました。
決戦「奉天会戦」と戦闘序列
沙河会戦以降、1905年の1月25日から29日の黒溝台会戦を除いて概ね戦線が安定していました。日本軍は弾薬欠乏と第三軍の旅順からの配置転換を待っていたために大きな動きが取れなかったのです。
しかし3月に入ると、野戦によりロシア軍を包囲撃滅するために奉天において一大決戦が企図されました。
奉天会戦における戦闘序列は次の通りです。
大本営は満州軍と並列する形で鴨緑江軍を組織し、旅順で活躍した第11師団を中心に方面軍を新設しました。奉天会戦において鴨緑江軍は満州軍と共同して戦闘に参加しました。
また多数の後備旅団が配備されている点には目が惹かれます。日本側はこの会戦に投入可能な限りの兵力をかき集めました。
そしてロシア軍に対抗する強い味方が「独立重砲兵旅団」でした。
これは旅順要塞攻略で活躍した28センチ砲を運用した攻城砲兵司令部を改編したものでした。この部隊は満州軍総司令部による集中運用でなく分割運用され、各軍に振り分けて、その突破を支援する役割を担いました。
また戦闘序列の上で触れておくべき点としては「満州総兵站監部」が設置され、各軍の補給組織が統合されより効率的になった点があります。
また第三軍に「秋山支隊」が編成されています。
坂の上の雲でも有名な秋山好古指揮下の騎兵部隊です。
そもそも支隊とは建制組織でなく編成組織として任務に合わせて組み合わせて臨時に作られた戦闘部隊のことです。詳しい方は他国における戦闘団だと思ってください。
秋山支隊は黒溝台会戦において4倍の敵を跳ね返す活躍を見せ一躍その名を轟かせました。
この支隊は第三軍のもとに編成されましたが、実体は騎兵師団と言って差し支えないでしょう。2個騎兵旅団を中核に4個騎兵連隊を歩兵師団から抽出し、総勢7個騎兵連隊を保有し、歩兵や砲兵もいる部隊でした。また特徴的な点としては2個旅団にはそれぞれ新兵器である機関砲隊が付属していることです。
奉天会戦は日本軍は5個軍約25万人を、ロシア軍が3個軍と戦略予備で約30万人を投入した一大会戦でした。日本軍は数的劣勢の中、決死の攻撃によりロシア軍の第一線を食い破り奉天を陥落させましたが、戦略目標であるロシア軍の包囲撃滅には失敗しました。
しかし双方数万人の死傷者を出したこの会戦によりロシア陸軍も疲弊しました。日露の死傷者を合わせると10万人を超えています。
加えて、ロシア側は日本海海戦においてバルチック艦隊が撃滅されたことや、ロシア国内での革命機運の高まりもあり、遂に1905年にロシアが講和会議の席につきました。日本は国力の勝るロシアと戦端を開きそして講和までこぎつけたのでした。
1905年12月大本営は解散となり戦闘序列は解かれ、満州警備の一部師団以外は復員しました。
日本は講和会議の結果南樺太の獲得に加えて、南満州における権益を獲得しました。
しかしながら多額の戦費を投じながら、賠償金を得られなかったことはその後の軍備拡張に暗雲を立ち込めさせます。
日露戦争は20世紀に入って起こった最初の大国間戦争でした。
日本陸軍は辛勝ながらも、大国ロシアを打ち破りました。
その背景には、近代的な動員基盤により平時13個師団を養いながら後備部隊を動員し、そしてそれを補給し続けることに成功したことが間違いなくあります。これによって国力に劣る日本が奉天において極東ロシア軍に対抗可能な程度の兵力をそろえることに成功したのでした。
大正期の日本軍
軍縮の波と師団削減
日本陸軍は日露戦争後もロシアの脅威を背景として常設師団の増加を図りました。
陸軍は1906年には平時25個師団を要求しました。まず戦時中に編成した13から16師団の常設化が認められ、順次25個まで増設する運びとなりましたが、政府は戦後の緊縮財政の下でこの方針を断念し、17,18師団の2個師団の増設に落ち着きました。
これによって帝国陸軍は長らく常設19個師団体制となります。
次いで1910年に朝鮮を併合すると、朝鮮防衛のために2個師団を陸軍は要求しました。緊縮財政の頃であり反対論も政府から出ましたが1915年これも認められ、これにより陸軍は常設21個師団体制となります。
1912年(明治45年)明治帝が崩御され、大正天皇が即位します。
この大正期は国際政治の激動であると同時に日本陸軍にとって苦難の時代でもありました。
1914年第一次世界大戦勃発、1917年ロシア革命、1919年第一次世界大戦終結。
大戦を通じて日本は好景気でしたが、戦後不況により緊縮財政を取らざるを得なくなります。その対象は陸軍にも向きます。ロシア革命によって北方の脅威が消えたこともこの動きに拍車をかけました。
1922年時の陸軍大臣山梨半造は「山梨軍縮」と呼ばれる軍備削減を実施します。
この軍縮の目的は、緊縮財政に応えるというよりも、第一次世界大戦で発展した軍隊の変化に対応する能力を獲得することでした。
軍縮の対象としたのは3個野戦砲旅団でしたが解体で浮いた予算で2個野戦重砲兵旅団を編成しました。
また歩兵大隊の中隊を4つから3つに削減することも行われました。各師団は12大隊48個中隊を保有しており、それが21個師団なので252個大隊1008個中隊のわけですが、それが一挙に21個師団ー252個大隊ー756個中隊と実に25%も減少するわけです。
これを補うために各中隊に6丁の機関銃を配備して減少した火力を補う構想でしたが、予算不足から全師団にいきわたるには13年かかるというお寒い現実がありました。
しかし、軍縮はまだ終わりません。
1923年に関東大震災が起こり国家歳入が1割減となり、帝都復興予算も必要となり軍にさらなる縮小が求められます。
1925年常設師団6個削減を求める政府の要求に対して陸軍は辛うじて4個師団削減で妥協を図ります。これが「宇垣軍縮」です。これにより13・15・17・18師団が削減されました。
これにより常設師団17個体制となり、日露戦争の頃と同水準にまで規模は縮小しました。
それどころか機関銃の配備は待てど暮らせど進まず、中隊は削減されているため、日露戦争以下の水準と言えるかもしれません。
ただし、陸軍としてもただ削減するだけでなく、第1戦車隊、高射砲第一連隊、飛行第7・8連隊の増設を決めました。戦車、飛行機、対空砲と第一次世界大戦で活躍した兵器群を一挙に導入したのです。
また歩兵師団については各連隊に重機関銃隊を設け火力の増強を図りました。
概して、大正期の陸軍は主敵は予算でした。
そしてこの戦いに敗れました。
1008個中隊が612中隊にまで減りました。実に40%の減少です。
引き換えに連隊と中隊の機関銃の増強が決定するがこれは遅々として進まず、近代的兵器も列強が戦略単位として保有しているのに対して日本はそのミニチュアといった規模しか保有できなかったのです。
日中戦争の戦闘序列
一号軍備計画と三単位師団
停滞していた日本の軍備は関東軍の動きにより変化します。
1931年満州事変の勃発です。
関東軍が満州地域において謀略と武力行使によりその全域を支配し、清朝の皇帝を担ぎ出し満州国を復古させました。
1933年満州事変の首謀者である石原莞爾大佐が参謀本部2課の科長に就任しました。
この石原莞爾が軍備拡充を主張します。
その根拠は満州国に展開する日本軍3個師団に対して、極東ソ連軍は11個師団も保有しており更に増援も可能との情報に接したからだとも言われています。
石原は1936年に『軍備充実計画の大綱』を策定します。
海軍力の整備の完了する4年後までに陸軍も軍備を充実させるという具体的なタイムスパンが示されました。ただし陸軍省としては予算的には1943年まで必要としていました。このため「軍備充実六ヶ年計画」もしくは「一号軍備」と呼ばれました。
その詳細は平時27個師団、戦時41個師団とされました。
しかし現状17個師団をどのように拡張するのかの問題がありました。
そこで石原が考えたのが三単位師団への移行です。
旧来の1個師団4個連隊制から3個連隊に削減することで、17個連隊が抽出でき、これにより5.5個師団が新たに新設できます。また今後編成する師団もこの編成を取ることで同じ27個師団でもより予算的にも国力的にも編成がしやすくなることになります。
列強各国でも三単位師団編成への移行は進んでいました。その意図は歩兵当たりの火力量を増大させるためです。一号軍備でもこれは狙われており、各大隊に機関銃・連隊に速射砲を配置し、また急速に発展している通信技術を鑑み連隊ごとに通信隊を持ち師団の連携を密にする努力が図られ火力を増進しようという努力が見て取れます。また興味深いのは一部の輜重部隊を自動車化する計画もあったことです。
しかし何事も計画通りには進みません。
計画の翌年1937年盧溝橋事件により日中の全面戦争に発展しました。
結果的に動員と新規師団の編成が行われましたが、この時新編された13と18の2個師団(共に宇垣軍縮で廃止した師団番号を復活させた)は四単位編成であり、一号軍備の狙いは不徹底に終わりました。
かと思えば1938年に編成された第23師団や21師団は三単位編成師団でした。
このように師団編成の改革の途中で戦争が勃発し慌てて動員をしたために既存師団の改変は実施できず、新設師団も三単位と四単位が混在していました。
師団が均一な編成でないということは、軍団長がいちいちその師団の能力を検討して運用をしなければならないことを意味し、極めて非効率なことです。
最後に日中戦争で運用された2つの師団をみてこの章を締めたいと思います。
実際に編成された三単位歩兵師団の編成です。
注目していただきたい点はいくつかあります。
一号軍備では大隊は山梨軍縮以来の3個編成としていましたが、三単位師団を導入した際になし崩し的に第4中隊を復活させています。
次に騎兵連隊が廃止され、師団捜索隊が編成されたことです。
この師団捜索隊は、一個乗馬中隊という従来の騎兵を配しながらも一個装甲車中隊を配備している点で日本において初めて師団に装甲部隊が与えられた点は注目に値します。実際対戦車能力の乏しい中国軍と戦うにあたってはたった数両の装甲車といえで十分に脅威となったようです。
また砲兵については10センチ砲中隊が新設されています。本当はすべて新型の砲に置き換えたかったものの間に合わなかったために各大隊に1個中隊新型の10センチ砲を配備しました。
また日本軍は自動車に頼っていなかったイメージもあると思いますが、輜重兵連隊は一号軍備通りに一個自働車中隊が配備されました。残りの車両中隊は従来の輓馬中隊と変わりありません。
続いて今後の編成表で登場することとなる、独立混成旅団の編成表です。
通常より多い5個大隊からなる旅団と砲兵や工兵からなっています。
混成旅団は日清戦争などでも登場したのでご存知かと思います。
歩兵以外もいる部隊のことです。
では何が独立なのでしょうか。それは旅団が直接「軍」に直結している点です。
なぜこのような部隊が編成されたのかというと、中国で戦う中で後方地域にゲリラ攻撃を仕掛けられるため、後方の治安を守る部隊が多数必要になったからです。
実は独立旅団は時期によって編成が異なっていたり、例えば第一独立混成旅団は戦車を持ち戦車運用のモデル部隊であったりと内実はかなり複雑です。
そのためあくまでもこれは一例と思ってください。
太平洋戦争の戦闘序列
太平洋戦争の起こりと戦闘序列
日中戦争や日独防共協定によって列強と関係悪化した日本は仏印進駐によって石油を禁輸されてしまいました。1941年日本は自存自衛のため、そして石油確保のため、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦布告しました。
太平洋戦争の経過については別に記事を出しているのでまだの人はぜひ読んでいただけると本当に嬉しいです。
さてこの開戦時の戦闘序列です。
量が膨大なため3つに分けました。
簡単に見ていきましょう。
まずは内地について。
一つの変化は全ての師団の上に軍が設けられたことです。
日本は師団を戦略単位の基礎としていましたが、時代を経る中で、各国が100師団ずつ運用するような世界大戦の時代となり、軍が戦略単位として重要になったことが関係しています。
内地におけるもう一つの特徴は留守師団が目立つことです。
留守師団とは師団が留守の間、衛戍地(師団の拠点)を守るとともに、徴兵などの後方業務を実施する組織です。また同時にこの留守師団を用いることで速やかに追加師団を編成する意図もあり、建軍以来一貫して存在しています。
開戦時本土には内地には6個師団、10個留守師団がいました。
加えて大本営直轄の総予備として第4師団が上海に展開しています。
次に大陸の状況です。
太平洋戦争が始まったからと言って日中戦争が終わるわけではなく相当の部隊が大陸にいます。
戦闘序列を見ると、北支派遣軍のうえに「支那派遣軍」が存在しています。
この軍を指揮する部隊を「総軍」と呼びます。
日露戦争における満州軍総司令部も総軍でした。
中国戦線は支那派遣軍という総軍の下に北支派遣軍という「方面軍」が存在し3個軍を指揮しています。加えて総軍は十一・十三・二十三の3個軍を別に掌握しています。
21個師団、19個独立混成旅団、1個騎兵集団がいました。
次いで関東軍。
設立当初は僅かな鉄道警備の大隊をもつ軍でしたが、1941年には軍でありながら隷下に7個軍を抱えているといういびつな建制です。これは1942年10月の戦闘序列の整理の際に総軍に格上げされます。
さてこの関東軍ですが12個師団、9個独立守備隊、12個国境守備隊、2個戦車団がいました。
そして最後に南方です。
南方軍という総軍の下に4個軍が隷下しています。
内訳は9個師団、1個支隊、1個戦車団です。
加えて南海支隊も南方軍と共同で作戦に当たります。
留守師団を除いて日本軍は51個師団を保有していました。
そのうち南方に振り向けたのは18%です。
東条英機は、清水の舞台から飛び降りる覚悟と戦争の決心を語りましたが、陸軍の投入兵力を見ると些か拍子抜けするところがあります。
南方軍の任務と戦闘序列の変更
南方軍は寺内正毅元帥が指揮を執りました。
その隷下の各軍はどのような任務を帯びていたのかをまず整理していきます。
第十四軍はフィリピン方面での作戦に従事しました。隷下には第16、第48歩兵師団がおり、また第五飛行集団が航空支援を提供しました。
フィリピン方面は南方作戦の中では比較的進捗が悪く大本営直轄予備の第4師団やインドシナを警備する第21師団より抽出された永野支隊、香港を攻略した第一砲兵隊(重砲)が増強されました。
第十五軍はタイ及び英領ビルマ方面の作戦に従事しました。隷下には第33師団、第55師団が隷下していました。タイは外交交渉によって日本側の軍事通行を許可したことで第十五軍はビルマ方面に抜け、3月までにビルマ方面での所定の作戦を完了しました。
第十六軍はオランダ領東インドでの作戦に従事しました。当初は第2師団が隷下していました。その後香港を攻略した第38師団ならびに第一挺身隊が増派されます。また第十四軍の第48師団はフィリピン戦の最中に転属となり第十六軍隷下に編入されました。作戦発起に当たっては3個師団1個挺身隊にまで増強され、日本が南方の油田地帯である蘭印を重視したことが伺えます。
2月14日第一挺身隊がパラシュートで空挺降下してパレンバンを占領しました。これに呼応して各師団は上陸を開始し、3月9日までにオランダを降伏させました。
第二十五軍は英領マレー半島での作戦に従事しました。所属部隊は近衛師団、第4師団、第18師団、第56師団です。第二十五軍は第三飛行隊の援護の下でマレー半島に上陸し、要地を次々と陥落させ1942年2月までにシンガポールを陥落させ勝利しました。この電撃的な勝利で山下奉文中将はマレーの虎と呼ばれました。
南海支隊は第55師団の1個連隊と山砲1個大隊で編成されています。この部隊はグアムやラバウルの攻略に従事し勝利を重ねます。
第十七軍とガダルカナルの戦い
1942年5月18日、第十七軍を南方軍のもとに組織します。
所属部隊は南海支隊など数個連隊規模でした。
その目的はサモア・フィジーやニューギニアの確保にありました。
しかし、珊瑚海海戦の惜敗とミッドウェー海戦での敗北によりサモア・フィジー攻略作戦は中止となります。第十七軍はニューギニア方面を攻略するために投入されますが、地形が悪く作戦は思うように進みませんでした。
ミッドウェー作戦において同島を占領する目的で第7師団歩兵第28連隊より一木支隊が編成されましたが、ミッドウェー海戦の敗北の結果この部隊は上陸作戦を中止しトラック泊地で待機し、第17軍に編入されました。
1942年8月7日アメリカ軍はガダルカナル島に上陸し太平洋における反攻作戦を開始します。これを受けて第17軍はガダルカナル島への対応も任務とされましたが、ニューギニアでの作戦を進めながら遠く離れたガダルカナル島にも対応するのは無理がありました。
そこで大本営は11月17日に第十八軍を新設します。
第十七軍をガダルカナル島に専念させ、第十八軍でニューギニアに対応するように戦闘序列を改めました。
時間は少し戻りガダルカナル島にアメリカ軍が上陸した頃。
8月7日の攻撃を受けて大本営は即応できる部隊を検討した結果、ミッドウェー島に投入予定だった一木支隊に目を付けました。
8月16日には一木支隊はトラック泊地を出発しガダルカナル島に向かいます。
8月18日に上陸すると即座に攻撃に移りましたが、8月21日のイル河の戦いで壊滅しました。
ガダルカナル島における状況を受けて第十七軍には第2師団が戦闘序列に加えられるとともに、第18師団第124連隊基幹の川口支隊をガダルカナル島に投入し第二次総攻撃を実施しますが、これも失敗に終ってしまいました。続いて戦闘序列に加わった第2師団を投入した第三次総攻撃を実施しますがこれも失敗しました。
1942年11月16日南方における敵の本格的な反撃を受けて大本営は第8方面軍を新設します。司令官は今村均中将です。第八方面軍の隷下に南方軍所属であった第十七・十八軍を編入しました。
もっとも方面軍を新設したところでガダルカナル島における戦局は好転しませんでした。遂に12月31日に大本営はガダルカナル島からの撤収を決定します。撤退作戦のために第38師団から矢野大隊を編成しガダルカナル島に投入し撤収のしんがりを務めさせます。2月1日よりケ号作戦が発令され2月8日までにガダルカナルからの撤収が完了しました。
戦闘序列に限ってその後の展開をサラッと整理していきます。
繰り返しになりますが通史は制海権の記事で扱ったのでもし詳細が知りたい場合そちらをご覧ください。
1942年中にアメリカ軍は中部太平洋の諸島を次々と陥落させていきます。
遂には日本海軍の根拠地トラック島を射程に捉え空母による基地に対する航空攻撃を実施します。
1943年2月18日にトラック島の空襲を受けて大本営は米軍の次期攻撃目標をトラックと判断し第三十一軍を新設。隷下には第52師団を配備しましたが、米軍はトラックを空襲で無力化したと判断して迂回しました。その為第52師団は終戦までトラック島で持久自活することとなりました。
また1943年2月10日に第二方面軍を太平洋に展開させます。満州防衛の任務にあった第二方面軍を丸ごと南方に送り込みました。
第三十一軍も第二方面軍の戦闘序列に加わることとなります。
このほか1944年には第八方面軍そのものが司令部のあるラバウル周辺の島嶼を占領され孤立してしまい第十八軍のニューギニアでの作戦を指揮できなくなったため、第十八軍は第二方面軍に組み込まれます。
しかし米軍の攻勢によってニューギニアのビアク島に上陸したことで、今度は第二方面軍と第十八軍の連絡が遮断されます。第二方面軍はインドネシア方面まで後退するとともに、第十八軍は南方軍の直轄部隊として再編されました。
この第十八軍の戦闘序列の変更を見ると、米軍の攻撃によって日本の指揮系統は寸断が発生しているのが見て取れます。
話は第三十一軍にもどします。第二方面軍ならびに三十一軍の目的は、アメリカの爆撃機が日本に攻撃できる地点を防御すること、即ち絶対国防圏の確立でした。
絶対国防圏構想の流れはこちらの記事で詳しく述べています。
三十一軍の隷下には第29師団、43師団が輸送されました。
第29師団はマリアナ松濤の島嶼部にばらばらに配備され各個撃破されていきます。
第43師団は要地サイパン島に配備されましたが、この師団は新編の師団で練度に不安が残りました。加えて43師団の一部は輸送船が潜水艦により撃沈もされており万全とは言い難いものでした。サイパンにはこのほか独立歩兵第47旅団、海軍の横須賀第1特別陸戦隊が配備されていた。
サイパンに対するアメリカの攻撃は6月15日に始まり防衛部隊は奮戦したものの7月には玉砕した。その根本にはマリアナ沖海戦で制海権を失ったことでサイパンが孤立無援となったことが挙げられます。
フィリピン決戦と戦闘序列
サイパンの陥落によって絶対国防圏構想は失敗に終わりました。
日本陸軍は次期決戦をフィリピンと見据えていました。
1944年8月フィリピンに展開していた第十四軍は第十四方面軍に格上げする戦闘序列が発令されます。その司令官に山下奉文でした。そして第十四方面軍の下で第三十五軍が編成されました。また第四航空軍も同方面軍に加わり、ボルネオ防衛のための三十七軍も編成され着々と決戦の準備を整えます。
フィリピンの第三十五軍の陣容は決戦と言って差し支えないものでした。
フィリピンには10個師団、7個独立混成旅団が配備され、3個師団が各地で出動態勢にありましたした。、また空軍も一個軍あり新型の4式戦闘機も配備されるなど陸軍はこの一戦に全てを賭しました。
しかしながら海上における台湾沖航空戦の戦果誤認の結果、陸軍は当初のルソン防衛計画からレイテ決戦に作戦計画を転換し、制海権の無い中での輸送の結果作戦は失敗に終わり、また海上決戦でも米軍が勝利したことでフィリピンの主導権はアメリカのものとなり日本軍は終戦まで持久防御することとなりました
本土決戦と戦闘序列
1945年8月15日に日本の戦争は終わりました。
最後に終戦時の戦闘序列を整理します。
本土決戦に備えて2個総軍が本土に整備されました。
具体的な戦闘序列を網羅的に議論するのは難しいですが、いくつか要点をあげます。
注目していただきたいのは第一総軍、第十二方面軍第三十六軍です。日本軍の本土決戦では侵攻してきた米軍を足止めしている間にこの戦車2個師団を含む兵団で攻撃するというのが関東における防衛の基礎であり、四十番台の軍が目立つ中、30番台と若い番号でフィリピン戦の頃より準備されていた兵団です。
また航空総軍は本土を防空する航空隊を総括しており数の上では相当な航空機がまだありました。
また赤く塗りつぶした三十二軍は沖縄の戦いで全滅した部隊です。
次の円グラフではこの部隊は数に含めていません。
最後に師団配備状況を見て終わります。
内地の師団数は52個師団にも上ります。勿論急激に師団を増やしたため練度の不足や根本として武器の不足などが発生していましたがそれでも史上まれに見る規模の部隊規模であることは間違いないでしょう。
一部の軍人が講和に反対し本土決戦に一縷の望みを託した背景にはまだ兵力の上では一決戦をする余力があったのは間違いないでしょう。当然その結果連合国が講和に応じるかは分からないので実施自体にどれだけ意義があるのかは疑問が残ることですが。
また日本政府の連絡の自由が辛うじて生きている内地、朝鮮、満州に兵力の50%がいる一方で、兵力の45%は中国や南方に取り残されたままでした。そしてこの取り残された師団たちは精強な部隊であり、本土には根こそぎ動員した二線級師団ばかりでした。
おわりにかえて
戦前の77年間を追いかけました。
我ながら無茶な企画でした。
最後に常設師団数を見ながら振り返りましょう。
明治維新によって藩兵から鎮台、そして師団へと軍隊は変化していきました。
実は1941年の51個師団というのは、帝国国防方針の中で日本軍が求めていた50個師団を考えると理想的な規模だったのです。
この数字は国力の考慮からもこれが限界だという数字でした。
しかし太平洋戦争がはじまると師団は際限なく増えていき限界の3倍まで動員していることになります。実に成人人口の10%に上りました。勿論同時に数えきれないほどの独立混成旅団も同時に整備されています。
日本は数の上で勝るアメリカに負けたというのはよく言われる話ですが、師団の数だけで見れば相当な規模がいました。そしてフィリピンの決戦などではそれを集中運用することさえしています。本土決戦においても兵力の集中は達成していると言っていいでしょう。
すると疑問が湧いてきます。
本当に日本軍は物量に勝るアメリカ軍に敗れたのだろうかと。
残念ながらこの記事では答えが出せません。
しかし少なくともこの疑問を持てる程度には戦争の全体像というものは持てたような気がします。
執筆については1か月ほどかけて図表を作りながら、2万字近い量を書いたため正直へとへとですが、少しは日本軍がどこでどれくらいの規模で戦ったのかという戦争の全体像を理解する役に立つ記事がかけたように自負しています。
もし何か一つでも心に残ることがあればスキのワンクリックやコメント、Xのフォローなど頂けると本当に嬉しいです。
何か一つでも心に残ることがありましたら幸甚です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
8/13追記
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参考文献
大濱哲也『改訂版 帝国陸海軍辞典』同成社、1995年
藤井非三四『帝国陸軍軍師団変遷史』国書刊行会、2018年
藤井非三四『知られざる兵団 帝国陸軍独立混成旅団』国書刊行会、2020年
林三郎『太平洋戦争陸戦概史』岩波新書、1951年
瀬戸利春『太平洋戦争島嶼戦』作品社、2020年
大西正『日清戦争』中公新書、2014年
横手慎二『日露戦争』中公新書、2005年
太平洋戦争研究会『図説 帝国陸軍』翔泳社、1995年
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