三島由紀夫短編メッタ斬り


カッコ内にはタイトルから読み取れないハッシュタグを入れてある。興味のあるところから適当に読んでほしい。

前書き

タイトルはさる批評本のパロディである。村上春樹氏の後期作品を扱ったものはなかなか良い点を突いていた。他は微妙である。

こんな話をしている間にも人は死んでいく。葛原妙子の

昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつおり

という歌があるが、「見えざるほどに吹かれ」ているのは何もケーキだけではない。
ビル街も人間も、等しく死という風に吹かれ、少しずつ滅びていく―この今もなお。

この話は本編とは何の関係もない。
関係あるのは我らが新潮社の「三島由紀夫全集19」である。
これは実に821ページある。
ここで問題である。一つも面白くなかった。
……いや、「ラディゲの死」だけは面白い。残り三十篇がつまらなかっただけだ。はっはっは(三島由紀夫のわざとらしい笑い方の真似)。

何となく察してもらえたと思うが、この素敵な読書体験を私一人の心のうちに仕舞い込むのも癪(クソが)なので、なるったけ多くの人にこの退く……面白さを共有させる一種の精神的テロリズムを目的に当記事は書かれている。
よほどの暇人にしか勧めないが、暇人もこれを読み終える頃には株について猛勉強を始めるだろう。

急停車

戦後という時代に適合できないランプシェードづくりの男が不意に子どもが車にかれる(死にはしないが)光景で救われる。
おそらく、世界の偶然性(次の瞬間の死)が一時的かつ不完全にしろ目の前に現れることで、この生をも活性化したのだろう。
以下は歌人の穂村弘氏の言だが、私たちは私たちの社会から「小さな死」を追い出していった。
すなわち街路樹や、茶碗や、ランプシェードのような、死から遠く隔たった生ばかりで、地上を埋めてしまった。

だが、その先には威張った爺さ……小林秀雄の「あめの様に延びた時間という蒼ざめた思想」、または「罪と罰」のスヴィドリガイロフが語る蜘蛛の巣の張った永遠の他、何があるのか。

どうせ死ぬ こんなオシャレな雑貨やらインテリアやら永遠めいて

陣崎草子「春戦争」

ハーバーマスの言を少し捻じ曲げると、死を締め出した世界で、むしろ死に纏わる諸々は先鋭化・過激化する。
例えば宗教。オウム真理教やイスラム国―どちらも社会の内に生きることの不条理に耐えかねた人々への、既成社会側の受け皿の少なさが招いた部分も否定はできない。
干からびた永遠にまみれた世界で、私たちは生の不条理から逃れることもできず、確かな死に所をも持たず、今日だけを生きている。

世界は本質的に絶えざる偶然の産物である。どこにも日常はない。この世の一切は無常である。
その事実をひた隠し、「非常」―死、美、崇高、狂気、愛―を怠惰な安心で包みこんだ戦後社会を生きる人間の悲劇を―多少の通俗性を帯びつつも―本作はよく描いているのではないか。

卵(ナンセンス)

卵が大好きな学生たちが卵の裁判に呼ばれるが、最終的には返り討ちにし大量の卵を食らう。
ナンセンスを書きたかった気持ちは分かる、が筒井康隆の足を洗ってから出直せ(何をどうしたら文房具の集団がイタチの群れと戦う話を五百ページ弱書こうと思うのだか)。

「笑い」についてはホッブスやベルグソンといった名だたる哲学者がその本質を探ってきた。
しかし彼らの回答は(私の覚えてる限り)「侮蔑」や「優越」と否定的に見るものばかりで、ラブレーやセルバンデスの持つ「笑い」の、多様な幅や深みにはとてもたどり着けていない。
なので個人的な見解を示す。
まず悲しみや怒りと違って、笑いは双方向性の感情である。
すなわち笑う者はたちまち笑われる者へ転落する危機のさなかにある。
笑う者と笑われる者の、目まぐるしい入れ替わり。
どこにも絶対的な神のいない・当然罪も罰もない―世界の恐ろしく愉しいカーニバル。
それが「笑い」ではないか。
だが三島は作者という絶対神のお立ち台から降りない。それもいいけど、誰にも笑ってもらえない神さまは寂しい。

不満な女たち

南米世界を書いた駄作。三島由紀夫とガルシア・マルケスに二十ページずつ書かせた短編を想像すれば出来の次第も想像できよう。

花火

とある政治家の弱みを握ってる男がいる。そのそっくりさんが、オリジナルから割のいいバイトと称され(真相を知らず)政治家を脅し、金をせびる。
伊坂幸太郎味を感じたが、氏なら作品に不必要で愉快なシーンをシャボンのように吹き込み、彼らはきっと国家ぐるみの陰謀と白熱した闘いを挑むことになったろう。

ラディゲの死(ジャン・コクトー)

遠い昔、レイモン・ラディゲという天才夭折作家がいた。彼の死と、それを看取るジャン・コクトー(シャボン玉の中にもう一つの世界があるという詩が好き)の姿を切り取った傑作短編。

「ねえ、怖ろしい事になつちやつたんだ。三日のうちに、僕は神の兵隊に銃殺されるんだ」

p126.

彼らはもちろん同性愛の関係にはない、しかし森茉莉の男たちの甘い陶酔は、ここで青褪めた硝子のような様式美に姿を変え、本作を貫いている。
長野まゆみ氏や萩尾望都氏の天使のような(この喩えは俗だが)少年たちを愛する方々はぜひ読んでみてほしい。

陽気な恋人(星新一、ティム・オブライエン)

陽気な恋人は自殺する。
中村文則氏の(タイトル忘れた)作品に、死ぬ前の人間はふわふわする―不正確な引用だが―という話があった。
死と「陽気な恋人」や「ふわふわ」の奇妙な近さを突き詰めれば人間存在の不可解さまで追い詰められるが、三島は詰めない。なのでこの短編もつまらない。
なお、三島はこれから死ぬという恋人にはた迷惑な手紙―書き出しが「三島由紀夫―ああこの女好きのするペンネームよ!」である―を送られている(「不道徳教育講座」より恐らく実話)。

未遂者の体感としても死ぬと決まった人間は極めて図々しくなる。これで死なないパターンは悲惨である。
星新一のショートショートに死神が来る話がある。サラリーマンN氏は横領、人妻は不倫、子どもは万引きを、それぞれ告白する。
ところが死神は実は死神でも何でもなかった。
N氏は横領罪に問われながら不倫妻と万引き息子を抱える(細かい筋が違っていると思う)。

死が煩わしい他者を無化すると、三島は「をはりの美学」で述べていたが、確かに「この私の死」という絶対の死は横領やら、不倫やら、万引きやらをチャラにしてくれる。 
けれど三島由紀夫も、星新一も、そこまで甘くない。

目前に迫った死はつかの間、人間と人間を強く結びつける。
この前、フィル・クレイ「一時帰還」という小説を読んだ。イラク戦争の従軍者の小説で、兵士たちは彼らの間にしか通じない固有のスラングを使って会話する(旧日本軍もそうだったはず)。
ティム・オブライエンの「僕が戦場で死んだら」に似た話が出てくる。ベトコンの、踏むと跳ねて顔の前で爆発する地雷原を通るとき、彼らはその地雷をあたかもパーティのジョーク・グッズかのように喋る。

平等な死の可能性は人間の個別性を取り去り、つかの間の連帯へ人を誘い込む(私はこれを「戦友神話」と呼んでいる)。
だがそれは死体安置所の死者たちの腕や足が自然に絡み合うのと果たしてどれほど違うだろう。

個としての死を無視し、安直な共同体の意識にその暴力性を包み込もうとする行為は、最後には他者の死を踏みにじる暴力にしかならない。靖国神社がそうであるように。
そして「他ならぬ私の死」を人間の薄ら笑いで覆い隠す行為は、人間から真の安心あんじんを奪う。

博覧会

三島には珍しいメタフィクション。中絶した作品の主人公は真昼の公園を何するでもなく歩き回る。語るべき物語を欠いた戦後日本の虚ろさを重ねるのは先走りのしすぎか。

芸術狐

この短編に関しては、多分冒頭の文章が書きたかっただけだと思っている。「古来、踊りをやる人には、(略)常軌を逸したところがある。」
彼らは一種の狐憑き―芸術という狐憑きなのである。

鍵のかかる部屋

話の内容がまったく頭に入ってこない。澁澤龍彦がここまで文体を壊されるとお手上げだと述べていたが、こちらも同感である。
なお長編「鏡子の家」に繋がる。
ただ両作に通じる、戦後の一時期の性的な乱痴気騒ぎを理想化する視点が私には受け付けなかった。

復讐(獅子文六、無頼の英霊)

戦前に犯した罪の疚しさで繋がる虚ろな家族の短編。彼らは正確には罪ではなく、共同体への負い目を感じているだけのようでもある。

獅子文六の「無頼の英霊」を思い出した。
ユーモア小説に組み込まれているが、実際はやりきれない話である。
田舎村一の暴れん坊が特攻隊に選ばれるも生還する。しかし彼はもはや田舎の風習を信じず、己の墓をノコギリで切って下駄にしてしまう。
一方、村の人々は戦後のアメリカナイズ化を無批判に喜び、かつての「英霊」たちは村の裏道からコソコソ帰る。
共同体の論理の下で個としての自己が融けてしまった世界で、人間はどこまでも醜悪になる。
そして、かつての死生観―自然な祖霊信仰も押しつけられた国家神道も―を下駄にして履くほかない彼のその後を思うと、私は胸が苦しくなる。

詩を書く少年

人間はみなある宗教に入信している。
例えば「健康教」、「知識教」、「自分教」……推しというのも、(電通臭い言葉だが)一つの宗教だろう。
神のいない世界で、人々は身勝手でいい加減な神をこしらえ、せっせと祈っている。誠に嘆かわしい。
なお私は「歯教」「チョコ教」「辛教」に入信している。

話を戻すと、本作は「少年詩人教」に入信していたかつての三島が、突如として信仰を喪う瞬間を描いた作品である。
人間は不意に、信じていた神が虚ろな何か、あるいは自分の影法師であることに気がつく。
しかし、その私好みの神が死ぬ瞬間にしか真の神は立ち現れないのではないか。
少なくとも少年詩人教信者平岡公威より、絶望と虚無の無神論者三島由紀夫のほうが私はずっと好きである。

志賀寺上人の恋

あしたは紅顔ありて、ゆうべには白骨となれる身なり。」―朝には美しい頬も、夕べには白い骨と変わる。
これをすんなり受け入れればそれも構わない。だが儚い紅顔の美に酔うのも人間だ。
しかし老僧の志賀寺上人(白骨)と絶世の美女(紅顔)の対決の答えは決まっている―人はみな死ぬのだ。

水音(ミステリー)

ろくでなしの父ちゃんを兄妹が殺害する。タイトルの「水音」は兄が父を殺した青酸カリをよそった皿を洗う音。
問題は彼らの殺人→水音の順に情報が開示されるため、何の驚きもないこと。逆ならミステリーとも呼べただろうが。
いくら何でもジャンル小説を舐めすぎである。

S・O・S

不倫社長と妻との攻防が、戯れの海難救助ごっこの瓶に入れる手紙のメッセージに現れる。昼ドラの気配。後年の短編「魔法瓶」のダブル不倫を思いだした。
もうちょい露悪的に書けば、まだしも人間の一側面を照らすと思うが。

海と夕焼(少年十字軍)

この短編を読むと、三島由紀夫は限りなく信仰に近いところへたどり着いた作家だったと思う(夏目漱石が次点か)。
少年十字軍は神に祈り海が割れることを願うが海は単調に波寄せ続け、彼らは騙され、奴隷として売られる。
その後も流れに流れ、最後には日本で僧侶になった安里の話である。

悪魔がキリストにした三つの誘惑を思い出してほしい。悪魔はキリストにこう呼びかける。
「屋根から飛び降りてみろ。天使がお前を受け止める。そして、お前が救い主であることを人々に示せ」
だがキリストは悪魔の言いなりにはならなかった。ここでも同じことが言える。海を割り空を裂く神とは神の一面に過ぎない。
彼岸は現実を前に一見無力に見える。海は割れず、キリストは十字架を背負い、念仏を唱えても心は一時も安まらない。
ただ、神はその無力さのただ中にしかいない。
そしてその無力さの果てに、海は割れ、キリストは蘇り、仏心は宿る。
少なくともそう信じることはできる。

新聞紙

※性的な話題を含みます。

とあるパーティで生まれた子どもは新聞紙に包まれていた。
その子どものかわいそうな境遇に思いを馳せる敏子は、新聞紙を布団代わりに眠るホームレスに手を掴まれても「『おや、もう二十年たったのだわ』」―つまり子どもが成長したというファンタジーとしか思わない(ツッコミどころは多々あるが私のせいではない)。

「皇居の森は真黒に静まり返っている。」
―このあと敏子はレイプされるのではないか。
ただもしそうだとするなら、この話は不必要に残酷である。筆者の読みすぎと思いたい。

商ひ人(寓話)

とある修道院(名は天使園)の内部を覗くためのハシゴを貸す商売人の話。
―毎日ハンバーガーを食えと言われると食欲が失せ、毎日三回決まった女性と性交しろと言われると性欲が失せる。
欲望とは不在―何を食べるか、どんな女性と何度関係するかの不在―が生み出すものであり、その本質は不在と存在とを(亡霊のように)反復横跳びし続ける。
だから、商売人は女子校に興味を持たない。そこには「不在」を生み出す装置としての「禁止」が―正体は単なる退屈な風景が―あるだけなのだから。
人間がこうも飽きず生きるのも、誰一人未来視ができないためだろう。「私」とは常に揺れ動く最大の不在であり、欲望を産みだす装置である。
(これは穿ちすぎだが天使園の中身が空とは、ひいては神が―天皇制そのものが―虚ろな儀式に他ならないことの遠回しなアイロニーのようでもある。)

山の魂

私はこれを短編「小説」とは認めない。短編作文である。内容はダムの建設計画をめぐる小話。意地悪爺さんとお人好し爺さんでは―童話の世界はいざ知らず―意地悪爺さんが勝つ。
なぜなら生きるとは小さな悪を絶えず受け入れ続けることだから。しかも大きな悪に怯えて。

屋根を歩む

情事を見られたと思った女の取り越し苦労を皮肉に描いた駄作。

牡丹(南京大虐殺、遠藤周作、スキャンダル、原罪、業縁)

南京大虐殺で五百八十人の女を殺した老人が同じ数の牡丹の花を育てる怪奇掌編。

三島由紀夫は色々なものを書けなかった。
笑い話も、戦争の無意味な死と暴力に満ち溢れた世界も書けなかった。
強いて言えばこの「牡丹」と赤い茱萸ぐみが記憶に残る「月澹荘綺譚」がそれぞれ人間の犯す悪に迫っている。ただ、どちらの作も寓話的な軽さを帯びていることは否めない。

ここから余談。
遠藤周作の「スキャンダル」など読む人もいないと思う(明白な失敗作である)。
こちらも読むたび痛々しくなる。
キリスト教には「原罪」という確かな悪への応答があるのに、サドだのマゾだの性的なものを「悪」として打ち立てる姿勢に、どうしようもない幼稚さを覚えた。

キリスト教の「原罪」は浄土門の「業縁」と並んで、倉橋由美子「城の中の城」に倣えば、「自分から病気になりたがる病人」の思想―と見られがちだ。
ただ、以下のように考えると納得……は無理でも共感くらいはできるかもしれない。

この世界には今日も暴力が溢れている。
ウクライナやパレスチナの戦争はテレビの向こうの出来事にしろ、身近な人間関係で、小さな暴力を振るわれていない人など、極めて少ないだろう。
「平和」と軽々しく言うが、「戦争」だろうと「平和」だろうと人間は人間で、醜く、しょうもない。
私たちは日々を生きつつ、そうした世界の在りようを―奴隷が汚れたパンを食うように―やむなく受け入れている。
だが、不意に激しい暴力が私たちを襲う。そのとき人は問う。
「なぜこの私でなければならなかったのか」

人がなぜ悪を犯すのか。
脳の攻撃本能といったそれらしい事実はあっても、それは私たちが、例えば通り魔にいきなり切られ、また見ず知らずの男に殴られ、不条理な暴力の前に引き裂かれたとき、何の役にも立たない。
前触れのない「悪意」の冷たさに、怯えと怒りを抱えて身動きの取れない私たちを納得させる力などない。

そうして追い詰められたとき、人はふと、こう問うのかもしれない。
「人間とはそもそもが壊れものではないのか」
アンテナが歪みレバーの曲がったロボットのように、暴力や性や欲望に引き裂かれ生きることしかできない人間は、そもそも壊れているのではないか。

もしそうなら、なぜロボットは―人間は壊れたのだろう。
それは一番初めの人間もまた、同じく壊れていたためではないか。
あるいは人間はみな暴力に呑まれ、生き死にを繰り返すうち、少しずつ傷つき、汚れ、壊れていったのではないか。

悪を為す人間への根深い疑いと、その前で立ちすくむ人間への応答こそ「原罪」であり、「業縁」である。
だから壊れた人間の救済もまた、そこでは切実に求められていく。

長々脱線した。
遠藤周作はアメリカ人捕虜の人体実験を扱った長編「海と毒薬」で人間の悪を確かに書いたが、その後は原罪観を深めず、「母の宗教」として(言葉は悪いが)無限定に甘えを許すキリスト教へ流れていったように思う。
絶対者への甘え(依拠)は必ずしも悪くはない。
しかし、「悪」の捉え方の甘さが後期の作品世界―「スキャンダル」や「深い河」―を大きく狭めているのも事実である。

青いどてら(川端康成、純粋の声)

青いどてらを着た少女が美しいのは外面だけで、内側は卑俗。
川端康成のエッセイ「純粋の声」も少女の作文によいものは少ない、歌声ばかりがいい、という女性蔑視そのものだったが、誰も彼も少女を舐めすぎである。もっと狡くてずっと聡い。

十九歳

三島にしては正統ストレートな作品(スガシカオの「19才」とは大違いだ「唇に毒を塗ってぼくの部屋にきたでしょう?」)。告白するのが怖い不良少年の話。

足の星座

時代遅れの歌手の虚栄心を扱った駄作。手形ならぬ足形を残す滑稽さがウリと言えばウリか。

施餓鬼船

父と息子の対話を通じて、芸術と生活の対比が描かれる。しかしすべての芸術家が決闘で死んでいたらこの世は大惨事である。

橋づくし(近松門左衛門、心中天の網島、人形浄瑠璃)

この話、近松門左衛門の「心中天の網島」を知っていたほうが楽しめるので、ちょっとまじめな解説をば。
まずは主要な登場人物から説明しよう。
ダメ男治兵衛、甲斐甲斐しい妻のおさん、義理堅い遊女の小春
この三角関係が治兵衛と小春の心中で決着する涙なくしては語り得ぬ心中物である。

名場面は治兵衛と小春の「名残りの橋づくし」。
二人が死に向って歩み、生活世界から他界へ移行する道行きとして、江戸文芸には珍しく聖性・宗教性への接近を見せている。
まあこの後幕府に心中物は禁止され、近松の悲劇は完全に喪われる。
ついでに、美しいにせよ本作、突き詰めれば職業娼婦と客の関係であり、そこに働く地上的な権力勾配が無視されているのも事実のはず。

問へば分別のあのいたいけな貝殻に。一杯もなき蜆橋しじみばし。短きものはわれゝが。この世の住居。秋の日よ

しかし三島由紀夫がこの短編を書いた一九五六年時点で日本では、もはや他界など見失われて久しい(天皇を確かな神ともせず廃絶もせず宙ぶらりんにし続けた国柄らしい)。

満佐子小弓かな子の三人の芸者に女中のみなが加わり、口を噤んで七つの橋を渡りきれば願いが叶うという俗信を試す。
ところが結局渡りきれたのは下っ端のみな一人だけ。
と書くと三島のよくある皮肉なコントの一つとしてしか読めないが、近松の道行を重ねて読むと、その劣化には見るに堪えないものがある。
曲がりなりにも彼岸への通路だった橋は、「橋づくし」では金や「好い旦那」が欲しいといった三人の芸者の卑俗な欲望を満たす場に落ちぶれている。

また、作中では冒頭から小弓の激しい空腹が語られ、かな子は途中で激しい腹痛に襲われ、満佐子は警察に腕をつかまれ強い痛みを覚える。
律儀に三人の肉体的な感覚が語られるのは、彼岸を求める魂を欠いた戦後日本には虚ろな肉体の存在感のみが残る―石原慎太郎の「太陽の季節」よろしく―という、遠回しなアイロニーとして深読みすることもできなくはない。

さて、本作の謎はただ一人願いを叶えた浅黒い「弾力のある重い肉」の持ち主のみなが、橋の道行で何を願ったかだ。 
これは作中に答えがないので推測するっきゃないが、筆者は多分、みなは何も願わなかったと思う。

もし人間の生の目的が明日も生き続けることだけなら、ことさら何かを願う必要もない。神も仏も必要ない。金と健康さえあればいい。
動物的な印象の残るみなは、他界なき戦後日本において超越者と尊厳を失った「エコノミックアニマル」の先取りのようでもある。

女方

新人の演出家に惚れた歌舞伎の女形おやまの万菊の話。
一世紀早ければ華麗で荘厳な心理小説として本作は確かな悲劇への一本道をひた走ったに違いないが、二十世紀の悲劇は偶然によってしか起こらない。
よって、万菊の必然の(あるいは運命の)恋は戦後の平らかな日常性へと堕してゆく。

色好みの宮

田舎の純朴娘を暇を持て余した俳優が天皇家に扮して貞操を奪う短編。実に下劣極まる。

貴顕(貴族、批評家)

意訳すると、ハリウッドでアクション映画監督になればよかった、と後悔するもすでに手遅れの貴族の批評家の話。
これ三島の発言だったか記憶があやふやだが(この記事こんなのばかりだ)、批評家は夢の仕舞われた段ボール箱の仲買人だ。
夢という虚構に現実の諸価値を当てはめ、市場で流通するよう値をつける。
だが仲買人は段ボール箱の中を覗くことは許されない。
あらゆる夢の値段に精通しながら、本物の夢に指一つ触れることのできない―触れるのは段ボールの乾いた表面だけ―の滑稽な存在。
それが批評家という種族である。同時に三島のジレンマでもあった……は言いすぎか。

ちょっと俗な謎かけである。
とある宿があった。ひなびた……場末のラブホテルのようなものをイメージされたい。
昼間も電飾をビカビカ光らせ、夜は大抵閑古鳥が鳴いているのになぜか潰れない。

実はそのホテルには覗き部屋があり、松は十万、竹は四万、梅は一万で恋人同士の情事を見ることができたのである(無論、松が接合部の最もよく見える位置である)。
それだけの話。虚しい。

百万円煎餅(浅草)

セックスを見せることで金を稼ぐ若夫婦が浅草の新世界(レジャー施設)で楽しむ落差を書いた駄作。
どうせなら「命売ります」に倣って―劇画調でもいいから―若夫婦を殺人者にでもすれば、まだ読めたのではないか。

スタア(クエンティン・タランティーノ、ジャンゴ、レオナルド・ディカプリオ)

三島が「からっ風野郎」という映画に出たので書いた俗な短編。大約すると若かりし頃のレオナルド・ディカプリオの悲劇。
そうだ、クエンティン・タランティーノ「ジャンゴ/繋がれざる者」、全シーンを半分にカットしたい欲望と闘いながら見たが、ディカプリオのギャングだけは金と権力臭くて非常によかった。
ポリコレ的にアウトとは思うが、私は黒人ジャンゴの図式的な銃撃戦より、このディカプリオのどぎついノワール映画を見たかった。
(これディカプリオの感想だな)

おまけ。三島由紀夫の戯曲は型が見えすぎて嫌いだが、最近ようやく主要作は読み切れそうである。
で後期のはあらかた読んだから、ついでに感想を載せておく。 

源氏供養(謡曲)

三島由紀夫最後の現代翻案能にして、失敗作(と本人は思ったそう)。新潮文庫の「近代能楽集」にも、原作に忠実な方の「熊野ゆや」(形式的な美しさがあって収録された「熊野」より私は好きである)と共に収められていない。
ただ筆者は好きである(何なら後年の「春の雪」を皮肉ったのかと思うほど)。
作中内小説「春のうしほ」を書いた作家の野添紫のぞへむらさきが亡霊となって立ち現れる。

光は瀟洒しようしや繻子しゆすの翼を持つた鳥のやうに、春のうしほに向つて身を投げた。

旧全集p10.

という感覚的な美意識を持つ―(おそらく)「花ざかりの森」の頃の自身に対する皮肉が込められた―文章は現在では記念碑となっている。
ところが野添紫の亡霊は陳腐な手品であり、その文学も同様だったと判明し話は終わる。
感覚的な美学の向こうにある、果てしない自己愛性の汚らしさを三島は見てしまった。
その、「誰よりも地獄の消息に通じた男」の苦悩が滲んでいる本作が私は好きである。
ちなみに本家謡曲の「源氏供養」は、何と紫式部が石山観音の化身だったというトンデモ話。
もし暇なら読んでみてほしい。

喜びの琴(警察、共産主義)

共産主義の跋扈ばっこする日本で純粋さを喪う警官の話。
右翼と左翼が複雑に入り乱れ娯楽警察ものとして十二分に面白い半面、「金閣寺」や「憂国」にある何としても伝えたい主題性を欠き、タイトルの「喜びの琴」も陳腐なニヒリズムの域を出ず、読後感は空疎である。

美濃子

古事記のスサノオ伝説を現代風に脚色したが、これを読む暇があるなら町田康氏の「口訳古事記」を読んだほうがいい。

恋の帆影

時代錯誤な純日本調の旅館で、あらゆる虚飾を受け入れて生きる女主人の恋のジレンマ。
この辺の三島の戯曲は形式だけの産物が多く内容が何一つ残らない。
(橋本治氏の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』に詳しい)

サド侯爵夫人

サディストの語源でもあるサドは、自身の栄光と汚濁を―後年のジュネのように―文学に結晶させ、自身は醜く老いてゆく。
しかし戯曲にサド本人を出さず、女たちの会話だけで成り立たせたのは見事。
純情な妻のルネがサドのSMを受け入れていたことが明かされ、陰画が陽画になるようにエロティシズムが噴出する場面は個人的な偏愛の対象である。

朱雀家の滅亡

一人息子は死に、守るべき光栄は喪われ、天皇―神は人間宣言を行い、もはや魂を殺されたも同然の男が抜け殻のように生き続ける戦後の虚無を描いた戯曲。
女性の造形が単調に感じるのはきずだが、それでも後期の戯曲では一番好き。

わが友ヒットラー(レーム、レーム事件)

ヒトラーには何かと倒さねばならない敵がいた。
まずは社会民主党―穏健派左翼であり、都市知識人の支持熱かった―。
次に既得権益層の右派―ヒンデンブルクやシュライヒャー。
お次がソ連の言いなりの共産党。
そしてナチ内部の過激左派、突撃隊を率いるレームである。
ヒトラーは大衆を味方につけ選挙で社会民主党を打ち破り、シュライヒャーは殺され、共産党は国会議事堂焼き討ちの濡れ衣(だろう)をかけられ……レーム率いる突撃隊も粛清された。
誰も彼もが死んでいく。
しかし、三島にこうした歴史像を捉える視点はない。
改めて思うが、三島のカメラの画角は割合に狭いのである。
これは特に後期―「鏡子の家」以後の長編で見られる傾向だが、心理描写の過剰は作品からドストエフスキーの行動性を奪い、物語を説明的・図式的にしている。 
ということで、本作もナチの一時代を取り込む広がりはなく、むしろ処刑されるレーム・突撃隊に青年の革命を、ヒトラーに中年の憂鬱を、それぞれ付託して作られた一つの寓話という印象が近い。
それはそれとして素敵な作品である。

癩王のテラス(カンボジア、らい病)

舞台はカンボジア。らい病の王が美しい宮殿を建てる史実を舞台に、精神と肉体の対立を扱った作。
三島の最後の戯曲だが過去作の焼き回しの感は否めない。各シーンも不必要に長い。
大江健三郎の「晩年様式集イン・レイト・スタイル」の、滑稽なばかりに老いた肉体を隠さず、それを含めて生き続ける―人間全体が生き続ける―ことを強く肯定してみせた清らかな明るさの欠片もなく、らい病という現実の難病への配慮も見られず、一言で言えば幼稚である。
三島の悪い部分が煮凝りのように出てしまった明白な失敗作だろう。

読まなくていい後書き

最近は様々な戦争や災害の犠牲者や被災者のことを調べている。大きな暴力の前で心や体が凍てついた人々の話は、何度読んでも息が詰まる。
ただ私の知識では不完全にしか調べられない。誰でも、何か知っている本のある方は―ノンフィクションやドキュメント、小説や戯曲、詩―それ以外の何でも構わない、ぜひ教えてほしい。

私のちゃちな知識を振り回すばかりの至らない記事だったが、少しでも楽しんでもらえれば幸いである。
なお「ラディゲの死」は間違いなく傑作だが、他は無理に読むことはないと思う。時間は有限だから、皆さんはもっと有意義な本を読んでほしい。
前世が紙魚しみだった男の忠告である。

 








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