陽光の下で深淵を覗く -エリザベス・グラスナー[Head Games]
某日、六本木ピラミデビル。
エリザベス・グラスナー「Head Games」(7月2日~8月31日)@ペロタン東京
呼び起される無意識
展示作品は、反射的に、その意味を問いたくなるものばかりだ。
もちろんのことだけど、作家の持つ意図はきちんと存在する。
ただ、作品の前に立って対話(自分と?)していくうちに、意味の追究は、する必要がないのではないかという気になってくる。
冒頭に転載した作家紹介にあるように、掘り起こされているのは、もしかして自分の無意識であって、鑑賞者は自分から引っぱりだされたそれを、画を通してただ眺めればよいのではないか? と。
意味の追究を手放したあとは
そして意味の追究を手放せば、作品がまた違った趣をもって自分のなかに入り込んでくる。
自分のなかから出てきたものが、明るい陽射しがさしこむギャラリーの白い空間のなかに、拡散していくようにも思える。
「よくわからないけど、よかった」という感想
観る者には、そのギャラリーに入るか入らないか、という選択肢がある。(作品のテイストなどに)興味がない、恐怖や不快といった負の感情が湧いてきて入る気にならない、(いい意味で)気になったので入ってみる、とても好きなテイストなので入ってみる、といろいろだ。
ただ、「なんだかわからないけど、入ってしまって、なんだかわからないけど、とてもよかった(と、思う)」という不思議な動機と感想がある展覧会があって、今回のエリザベス・グラスナー「Head Games」は、わたしにとっては、それだった。
陽光とアート
そんな感想を持つことができたのは、ギャラリーによるところも大きいと思う。
既述のようにギャラリーの一面はガラス張りで、自然光が余すところなく入る。そして例えばこの作品は、「外に」向けて展示されている。
もし、いわゆる美術館のような、外光を遮断して作品をスポットライトで照らし、額装して展示したなら、受ける印象は大きく違っていたはずだ。例えば、まさにムンク的な世界に、印象が振れてしまうのではいかという気がする。
だからわたし自身にとっては、陽射しの強い夏のある日に、自然光の下でこれらの作品と出逢えたことは幸せだ。