宇野亞喜良展(-6/16) -圧倒的な作品数,溢れる才能,プロフェッショナルということ
宇野亞喜良(うの・あきら1934-)、900点超の大型個展が開催されている(6/16まで)。東京オペラシティの「友の会」(年パス的なもの)を取得し、すでに4回ほど訪れている。
展示作品数900点超
会場は、いつ訪れても盛況だ。ファンのみならず、デザインやイラスト関連のプロだろうか?という雰囲気の方々もいる。作品の前で立ち止まり、じっと何かを得ようとしている人々の姿があった。
展示構成に従って、写真で様子を追っていく。
プロローグ 名古屋時代
1950年代の作品を観て、ただ一言「才能!」としか出てこなかった。10代のときから90歳を迎えた現在まで、走り続けてきた作家なのだと知る。
グラフィックデザイナー 宇野亞喜良
版下、校正紙。仕事の現場がよみがえってくるような展示。
企業広告
驚いたのは、戦後の企業広告・広報の自由さだ。
例えば、1967年の東急百貨店の「すごろく」。
内容も、なんだか攻めてる。
広報誌も、
カレンダー、ポスター。
アイデア募集のポスターは、シュルレアリスム(?)風。
パッケージ……これは今もありそう。
新聞・雑誌
表紙、そして挿絵。
「新婦人」表紙の版下。そうそう、こんなふうに、「版下」にはトレぺ(トレッシングペーパー)をかけて、その上に赤文字で指示を書き込む。そして印刷所に入稿する。
書籍
かなりの点数があったのだけど、ごく一部を。
表紙イメージを編集者とデザイナーが話し、それをふくらませてイラストレーターが作画し、デザイナーがレイアウトをデザインして、印刷現場の職人さんに編集者が橋渡しする。デザイナーの手描きフォントも美しい。
絵本・児童書
宇野亞喜良の手にかかると、絵本の絵も、どこか怪しく、大人の世界を感じさせる。わたしの宇野亞喜良・原体験は『詩とメルヘン』という雑誌だったのだけど、葉祥明といった作家たちのなかで、宇野作品はどこか惹かれる、でもちょっと憚られるような魅力に満ちていた。
ポスター
圧巻だったのが、ポスターの展示室だ。
すべてはとても載せきれない、情報の大洪水。1作品ごとが美しく、ときに怪しく、そして時代のトレンドを感じさせたりもして、この展示室で過ごす時間はおのずと多くなる。
舞台美術
展覧会ならではなのが、舞台美術の展示だ。
リアルな寺山修司ドールも。
「星の王子様」。立体になっても違和感なく、そしてとても美しい。
見惚れるような衣装から、
思わず、わっと飛びのきたくなるようなものまで、
その演劇を観たことがなくても、物語の世界に自然に誘いこまれてしまう。
近作・新作
近年は、
俳句とコラボした作品や、
こんなポスターも。
ショップには、ガチャもあった。1回500円、6種類。
疲れず逆にパワーを得る、その理由は
大回顧展的な展覧会では、疲れ切ってしまって休憩をとりながら鑑賞したり、何回も少しずつ鑑賞するのがわたしの常だ。
しかし宇野亞喜良展は疲れを感じず、その反対にすべて鑑賞したあとにパワーを得た気がした。
会場で上映されていた作家のインタビューを見て、ああ、と思うことがあった。
「この展覧会を通じて何を伝えたいですか?」的な質問のあとだったと思う。作家の動きが一瞬止まって、そしてこんな意味のことを言った。
考えているのは編集者、自分はその発注内容に従って、仕事をすると。その言葉は静かで、淡々としていた。
発注者の求める範囲があり、その範囲内での自由さを持ってクリエイティビティを発揮し、作品を制作して納品するのがクリエイターの務めだ。
しかしその範囲というのは、ある方向になら、うまく飛び越えていい。そこを感覚で察知して、結果、アウトプットしたものが「こう来たか!」的なものであれば、賞賛を浴びる。それができるのが、すぐれたプロだと思う。
もちろん、理解してみろとばかりに、全作家生命をかけた作品を展示し、鑑賞者に格闘を迫る展覧会もある。作家が精神的に不安定であったりすれば、なおさらだ。その嵐に巻き込まれて当事者のひとりとなるのも、展覧会の醍醐味だろう。
でも宇野亞喜良展は、そうした展覧会とは、毛色が違うのだ。だから鑑賞者は安心して鑑賞ができる。目の前に展開されるのがエロでもグロでも、その世界に遊びながら、日常に戻ってくることができる。すれすれのところでの予定調和。プロの手数。観終わったあとに、いい仕事を見せていただいた満足が残る。
クリエイター・宇野亞喜良はそうやって仕事を続けてきたのだと感じた。
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