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パワハラの登場人物
身近な職場環境でパワハラで離職に至る事例が発生した。パワハラをしたとされる彼は私と同世代で、特別親しくしていたわけではないが普通に会話する間柄ではあった。出向先の小さな組織であるため、登場人物の全てを把握している。
該当者である彼の傲慢さや狡猾さ、利己主義、無自覚さという個人の資質に問題があったように処理されている。そしていつものように安直な教育や再発防止活動の通達が回るはずだ。 どんな会社でも組織においてはしばしば発生しているから特に目新しさはない。事実、自分自身も他人事としてこれまで受け流していた。でも今回はその一部始終を見ていた。見て見ぬ振りをしていたところも否定できない。そのパワハラは恫喝していたり、人格否定するような言動があったようなものではない。ただ一人の上司が”仕事”を見誤って、部下を混乱させ続け、著しく信頼を損なっただけだ。
その彼の組織は管理系の業務で秘書的な機能を担っている。経営そのものにはタッチせず一人の経営者の存在を際立たせたり、それを社内外にアピールするような部署だ。その経営者も支える彼もそれは業務に熱心で、自分を演出することに余念がない。ビジネスそのものに直結するような数字を扱うわけでも、製品やサービスを扱うわけでもない。典型的なバックヤード管理業務。詰まるところ経営者の趣味嗜好や直近の関心事にアジャストし続けるのが仕事だ。ここでの悲劇が二つ。まずは一個人の経営者の趣味嗜好に一貫性と合理性はないため常に機嫌を伺うことでしか答えが見つからないこと。そして経営者に近い距離の部署であることから自分の主観的な立ち位置と客観的な役職とにギャップが生まれること。いつもビクビクしているくせに偉そうにしてしまうという行動様式が醸成され、周囲の評判が下がるという哀しい構図。
その彼は私からみて仕事熱心で能力も高い方だと思う。そして経営者に対する忠誠心もあり、愛社精神もあるような”優秀”な社員だ。その彼がなぜパワハラとされる行為に走ってしまったのか。それはその”優秀”が全て裏返って逆効果となった。経営者への忖度が過剰となり、少しでもその期待を越えようと理不尽なハードルを自分にも部下にも求めた。部下からは全く共感も得られず、信頼も得られなかった。端的に言えば彼は役割をただ生真面目に果たそうとした結果、パワハラで訴えられたという構図だ。
彼がわかりやすい悪者として処理されているが、登場人物の全てがこの事例の加担者だ。経営者もそうだし、共感できなかった部下も、それを見て見ぬ振りをした私も該当する。仕事とは役割の範囲でベストを尽くすという職業倫理そのものがパワハラに繋がる危うさを孕んでいる。分割した担当業務の範囲だけにベストを尽くすことをした場合、全体最適から離れて部分最適となることの警鐘はすでに鳴らされている。そして真面目に業務を遂行することは目的を達成するためのプロセスを見失い、部下と協調する大前提が噴霧してパワハラが完成する。
個人とは常に不完全で未熟なものである自覚と諦めがあって、初めて謙虚になれるし、他者を許容することができる。これがパワハラから最も距離をとるスタンス。職業倫理では自覚こそ促す(常に成長とチャレンジが声高に叫ばれる)が、諦めは決して許さない。それがパワハラの萌芽であることを誰も言わない。その厳しさは原理的に正しいが、全肯定することの危うさをここで今一度主張したい。蛇足的に言えば再教育を受けてそれを徹底するという構図はパワハラを強化するこそすれ、パワハラから距離を置くことにはならない。従順であることはパワハラが擬態する一様式である。
物事を斜に構えたり、茶化したり、皮肉を言う事があまり歓迎されない風潮。主流をスマートに揶揄するだけの知性を失った我々のせいかもしれないし、そのような余裕と遊びを失った時代のせいかもしれない。
彼は真面目にキャリアアップを目指し、私よりずっと意欲的な働き手だった。彼が会社を悪く言うような発言を聞いたことがない。
ハンナ・アーレントが喝破したアイヒマンの構造的愚行や凡庸性の悪と、組織に生きる我々は隣り合わせにいる。 歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として、三度目以降は茶番として。会社組織には哀しいほどの茶番で溢れている。