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【妄想突撃インタビュー!】 ①波乱万丈、英 一蝶(はなぶさ いっちょう)

今年になって、同郷ケンちゃんが大変興味深い書画譜を紹介されておりました。


英一蝶画伯のさぞかし波乱万丈であったろう人生を思うに、どんな人物であったのか益々興味はつのるばかり。

そこで姐さん、一蝶画伯に妄想突撃インタビュー! 致してみました。

英 一蝶

1652年(承応元年)京都生れ。
父は伊勢亀山藩侍医。幼少にて江戸へ転居。
藩主の命にて狩野派へ入門するも、後破門。
「狩野派風」町絵師として活躍。
俳諧に親しみ、芭蕉とも交友。俳号は『暁雲』。
その頃の吉原通いが高じ、芸者と同じ置屋に所属し、宴席やお座敷に呼ばれる「幇間」(ほうかん)と呼ばれる芸人となる。
1693年、罪を得、二ヶ月の入牢
1698年、「生類憐れみの令」違反に付き、三宅島ヘ流罪。
流刑地では、仕送りにて画材を要求。
江戸の風俗、 多数の縁起絵 など多作。
三宅島初期は、島一蝶の名で俗画を多作。
1702年、将軍綱吉の死により大赦、江戸へ12年振りに帰る。
その後は再び、芸能活動と人気絵師の平行業。
1724年、享年73歳にて永眠。


「一蝶画伯、早速お伺い致します。お生まれは意外にも京都でいらっしゃる。」

一蝶「ええ、1652年。承応元年でしたか。父がね、伊勢亀山藩で医者だったんで。だけどまだボクが小さい時分に江戸へ転勤になりましてね。60年頃だったでしょうかね。ま、良いお家柄のボンボンだった訳ですけれど、ボクはお勉強の方はからっきし。ま、ちょっと絵の方が上手いって言うんで、その頃の大家、狩野派は可能かー! なんて言いながら藩主の命令で入門させられましてね。お師匠はあの頃トップだった狩野探幽先生の弟さんで、安信先生! スゴいでしょ?」

「あららっ。それは画伯も大変なご気苦労でしたしょう!? 探幽、安信、と言えば狩野派ピラミッドの一番上! 旗本と同格の奥絵師四家じゃないですか。」

一蝶「そうなんですよ。ま、ボクは御三家より、新・御三家の方がスキなんですけど。」

「あ、それは一緒。濃い系フラメンコの西郷輝彦も良かったけど、絶対ワイルド系ヒデキ、感激ー!」

一蝶「そうそう(笑)。ラテン系担当のGO GO!もね。
...失礼。えっとー、狩野派ってのはね、いわゆる幕府の御用絵師。まずは、筆さばきをしっかり忠実にカラダで覚え込んで、個性なんて出すのはタブー。だってあのお仕事って、ほぼほぼお城やお偉いサンのお家の障子や壁に描く、肉筆大作ばっかしで。」

「いやー、そりゃ窮屈極まりナシ! おんなじお題で何度も何度も描かされるんでしょう? 上り龍だ、縛り虎だって。一休さんじゃないけど。」

一蝶「そう、とんちでトンチンカンな一休さんね(笑)。お題にはみんな意味があってね、虎は怖くないといけない。強さとか支配の象徴だから。しかもいつも竹と一緒に描くでしょ。これはしなる、ってことで従順さ。あとは常緑だから長寿って意味だし、伸びる、伸びるってのもスキね、武将系は。型にはまっていて、アレンジはご法度。中国画の系統を引き継いでるからでしょ。正統派、ってことで。」

「しかも作品だけでなく、普段から品行方正でないといけない訳で。ハメ外して姐さんみたいに、呑み歩いたり乗り鉄したりできないんでしょ?」

一蝶「そうなんだ、これが! 呑まずにいられますか!っての。元々エリートに囲まれてるのがダメ。すっごいストレス感じちゃう。お上から言われて精進してたんだけど、そんなのガマン出来るわけないっしょ! ちょうどそんな頃かな、松尾芭蕉ちゃんに出会ったのも。」

「お! あの元祖おセンチ風来坊! 自由人なところにちょっと憧れてたとか。」

一蝶「んー。そうも言えるかな。芭蕉ちゃんとは俳句やってたから、その繋がりで。ボクよりはちょっとトシ上で、何か人生イロイロの諸行無常影響受けちゃった、って感じ。」

「ま、この頃だから結構自然に詠んでたんでしょうね。で、俳号は?」

一蝶「おセンチだからね。夜明けのうっすら流れていく雲、ってことで暁雲、ぎょううん。ぎょぎょぎょーうんっ! 他にもあるんだけど狂雲堂ってのが。きょきょきょーうんっ! でも一般的には最初の。で、姐さんのは?」

「ぎょぎょぎょっ! 姐さんはやっぱりスキな三日月で。名前は巴ですよ。オトナの俳句♥専門なんですけど。」

一蝶「えー、今度コラボしてみたいですねー。オトナで♥」

「そうですね。だって画伯は、オトナのお遊び吉原がスキすぎて、って有名ですよね! 」

一蝶「すんません(笑)。スキでしたね〜。でも20代とかの若い頃ね。若気の至りってヤツで。(16)70年代終わりぐらいから80年代じゃなかったかな。」

「ちょうど芭蕉さんとお知り合いになった頃。その頃ですよね? かの狩野派から、出てけー、って破門されたのって。」

一蝶「あ! ...うーん。あの頃かなり足繁く通ってましたからね。吉原(苦笑)。それで結局そのまま置屋に寝泊まりするようになって、芸者のお姐さん達と一緒に宴席やお座敷にだんだん呼ばれるようになって。一応師匠ナシで放蕩の果ての見様見真似だと"野太鼓"って呼ばれるんですけど、ボクはいわゆる"太鼓持ち"で、ちゃんと"幇間"(ほうかん)っていう職業だったんです。」

「あ、じゃあその道ではなかなかなモンだったんですね! それにしてもマルチな才能爆発してますよね。生きるのに困ってないし。」

一蝶「結構イケてたんじゃないですかね。芸人として。意外と豪商からごーしょーっ、とご褒美とかありましたから。」

「あー、それ! 破門の理由! だけど一蝶さん、意外とオヤジギャグおスキですよね。ヒトのこと言えないんですけど。」

一蝶「てへ😝そうとも言えますかね。確かに狩野派門下ぐらいのエリートになると、普段から品行方正でないとイカンのですよな。それだし、やっぱり作品の方も、俗っぽい浮世絵や風俗画なんかはNG。だから家法の尊守みたいな姿勢は、いまいち性に合わなかった。」

「なるほどね〜。姐さん、その気持ちよくわかる〜。狩野派の反逆児。だからでしょ?その頃入牢させられちゃったのも。」

一蝶「そうですね(苦笑)。あれは、(16)93年でしたね。二ヶ月入牢。自分的にはちょっと口が滑った、って感じですけどね。だって芸人ていう職業柄仕方ないですよ。大名さんとか、地方の豪商さんとか遊ばせて、楽しませて幾らか貰うんだから。」

「ほらほら、あんまり反省してないみたいじゃないですか。一蝶さん! いくらこの頃キビシかったって言ってもね。」

一蝶「そうですよ。別名犬将軍の五代目綱吉の時代ですからね。あの悪名高い『生類憐れみの令』。」

「あ~、アレアレ。ヒーロー、ハチ公(1685年)の!」

一蝶「そうそう。あの頃はヒドかった。そんなんアリ!?って罪がゴロゴロしてた。」

「そんなに大変だったんですか。例えば?」

一蝶「まず犬に噛まれて、その犬を斬り殺したサムライは切腹。五歳児の病気養生に、燕を食わせて死罪。旅の途中に馬が倒れて放って帰り、死んだってんで八丈島へ流罪。病気の馬を捨てたって三宅島へ流罪。そんでもって、子馬三匹を捨てると、江戸中引き回しの品川で獄門。馬引いて鶏踏み殺したって、牢舎行き。京橋の虫売りだって牢舎行き。挙げ句の果てには、屋号、人名に鶴って字や紋の使用も禁止って言うの。信じらんないでしょ!?」

「ひぇ〜、そりゃオソロシー。それでも、江戸の大火と同じ頃?」

一蝶「あ、あれはね、それほどひどくなるちょいと前になるかな。八百屋のお七が近所の吉三に惚れちゃって、自分ん家に火つけりゃその間は一緒にいられるだろう、ってやつね。それが冬のからっ風で江戸一面を焼き尽くしたって言う。落語にもあったじゃないですか。お七の七と、吉三の三で十。火事でハートも焼けちゃって、二人で飛び込むお堀でジュー、ってハナシで。」

「そうです、そうです。リアルタイムでご存知なだけ流石にお詳しい。この大火、えっと…(16)82年ですもんね。確か山本周五郎さんの小説にもありましたね。『ちいさこべ』っていうの。最近姐さん、娘ちゃんの宿題手伝わされたもんでね、ちょいと読んだんですけどね。川越もちらっと出てくるし。男気のある主人公がね、大工さんで、そこへ手伝いに来てた幼馴染みの女の子が江戸大火で親を亡くした孤児たちの世話をしてるとお奉行さんに咎められちゃう。」

一蝶「そうですよ。捨て子なんかしたり拾ったりしたらどこで罪になるかわからないから。
でもその点、井原西鶴先生は上手い立ち回りだった。あの先生とも俳諧繋がりでね。その後作家に転身して"好色シリーズ"でだいぶ儲かってウハウハでしたよね。その中の『好色五人女』のネタにしちゃった、お七と吉三のハナシ。アレは売れてね〜。その後、浄瑠璃になるわ、歌舞伎になるわでそりゃもう大騒ぎでしたよね。そこで調子に乗って『男色大鏡』だから。こりゃいかん。」

「イッちゃいました?『生類憐れみ』?」

一蝶「いや、西鶴先生は大丈夫ですよ。なんとか。だけどボク、イッちゃった。」

「え! 画伯! そんな早く? 何処へ!?」

一蝶「ニヤケ島😁じゃないか、三宅島へ。一気に流罪ですよ、流罪。」

「あちゃ〜。そりゃかなりの勢いでイッちゃいましたね。『生類憐れみ』違反で? だけど具体的な要件は?」

一蝶「ま、元々アウトサイダーだったし、アンチお上だったでしょ。それにアノ令すっごい嫌いでね、それで、数年前は口滑らせて痛い目にあったんで、今度はちょっと風刺画で。やっぱりゴシップが結構売れたんで。コレがその風刺画。」

「あ、コレね。川越のケンちゃんの記事でも見たことありますよ。曽祖父氏がお好きで模写してたっていうぐらいの、イイ絵じゃないですか。しっとりしてて。」

一蝶「イイでしょ〜。すんごく好きで何度も描いちゃってるんですけど、この朝妻舟っていうのは、今の滋賀県米原市から琵琶湖を挟んだ反対岸の大津市を往復する渡し舟なんですよね。」

「ほーぅ。結構距離ありますね。琵琶湖って、日本で一番大きい湖! ぶっちぎりの第一位ですからね。大阪に居た子供の頃、家族でワーゲンのビートルに乗って琵琶湖は行きましたけど。今なら姐さん、近江鉄道で乗り鉄しながら行きたいぐらいです。」

一蝶「そう。大津で舟降りたら、京の都はもう目と鼻の先ですからね。大津も当時はなかなかの賑わいでしたよ。西のキレイ処のお顔は、大津絵ってので拝むもんだったんです。」

「なるほど。大津絵は結構ゆるキャラっぽい感じの作風が多くてきゃわゆいんですよね。だけどコレはかなりオトナっぽいんじゃないですか?なんとなく。」

一蝶「さすが、姐さんオトナだから。この時代ね、白烏帽子、白拍子姿で鼓持ってる、ってことは、唄える女。いわゆる春をひさぐ遊女、ってわけ。だから彼女らが唄う小唄の歌詞もこの絵の中に。その頃将軍様だって何人かのお気に入り遊女とかいた訳ですよ。『生類憐れみの令』で憐れんじゃってる訳ですよ。ボクも当時吉原詳しかったし。コレは、まぁ、当時のブログみたいなもんでね。キレイな遊女の画像と、意味深な歌詞を貼り付けて記事を上げたら、バズっちゃった。その代わり当のお上の目にも触れちゃって、流罪。みたいな。」

「あ、そーゆー流れがあった訳ですね。なるほどそれは知らなかった。
ちょっとお見せしますよ。ケンちゃんの曽祖父氏の模写を。如何でしょう?」

こちらがケンちゃんの曽祖父氏の模写

一蝶「え!? マジ? ウマ過ぎじゃね? あれれ〜、これはびっくり。唄まできちんと。彩色してないだけで、ほぼほぼイケてるじゃないですか!」

姐「ですよね♥ 坊主が上手に屏風に上手にジョーズの絵を描いた!ってぐらいですよねぇ。
それを見てね、姐さんもちょっと描いてみましたよ。ケンちゃんが記事にしていた『勝手に英 一蝶展!』の模写の模写!」


姐さん作、朝妻舟

姐「ついでに彩色までしてみましたよ。」

彩色、朝妻舟

一蝶「お!やっぱり二枚目の彩色の方がバランス取れてますね。だけど柳の木は一枚目のモノクロの方が良いお手前かな。水墨画としては。ダイナミックだし。」

姐「画伯、アザっす! ウレシイですね。画伯自ら講評していただけるとは。光栄です。」

一蝶「いえいえ、こちらこそ。模写して頂いて画家冥利につきますよ。」

姐「ところで、この後流罪になってからのお話、っていうのも伺いたいんですけれど、いつものことながら姐さんの記事かなり長くなってますんでね、この辺で休憩一服していただいて、第二弾へ続くっ! っていうのはいかがですかね?」

一蝶「あ、いいっすよ。そう言や、まだ半生分ぐらいしか話してないっすからね。ちょっとここらで一杯、イキますか、姐さん?」

姐「あっ! いいですね。そういうことなら…
じゃ、生中ふたつ!お願いしま〜すっ!」




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あれあれ、姐さんと一蝶さん、休憩と言いながら呑み始まっちゃいました。

それでは続きはまた今度。

きゃうん♥



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