ヴィーガンと「命をいただく」ということについて
※※今回は言葉が辛辣ですが、特定の誰かや主義主張を非難したり攻撃する意図はありません。なぜか私の中の攻撃性が強く出てしまっているというか、誰かの何かを代弁しているような感じなのでスルーしてください。無理して読まないでください。※※
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今年は丑年ですね。
私は牛乳も乳製品も、お肉も大好きです。
魚介類があまり得意ではないので、もっぱらお肉派です。
先日この記事の内容とは全く関係ないことを調べていたのですが、行きつく先々で「菜食主義」を推進していました。ヴィーガンというやつですね。
詳しくは知らないのですが、ヴィーガンの主張としては「人間が不当に家畜の命を操作し搾取している。それに抗議するために菜食を貫き動物性食品は食べない・買わない」ということのようです。
たしかに家畜をモノのように扱うような生産者も一定数いるのでしょう。
自由を奪い、人間に都合の良いように餌や運動量などを操作して、儲けのために効率化を進め大量生産している。
私もそういう生産者からは買いたいと思いません。
ただ、畜産農家の全てがそのように家畜をモノのように扱っているわけではないと想像してほしいのです。
知り合いに牛を扱う畜産農家さんがいるのですが、研修のために地方から東京まで出てきたり、早朝から牛の世話、年末年始もお盆休みもなく牛の世話をしています。長期旅行なんてきっとできないはずです。
家畜に対して愛がなければ、こんなことできるでしょうか。
家畜は狭い飼育場所に閉じ込められ、寿命を迎える前に人間の都合で殺される。
そういう見方もできると思います。
しかし“家畜としての命の全う”を考えてみると、大事に育てられ、美味しく食べてもらうこともまた“命を全うした”ことになるのではないでしょうか。
あくまで思考実験的な想像の範囲でしかない話ですが、彼らはそのために生まれてきたのかもしれないのです。
もしあなたが誰かに仕えることを使命として生まれてきたのに「自由に好きなように生きろ」と野放しにされたらどうでしょう。
自由に生きて、「命を全うした」と心から思えるでしょうか。
そして畜産農家さんにも生活というものがありますよね。
不買運動によって、愛情を持って家畜を育てている農家さんが路頭に迷うかもしれません。
不当に家畜を扱っている業者だけ潰れるというならいいですが、そう都合良く行くとは思えません。
ちなみに野菜だったら食べるまでに命を奪わずに済んでいるかというと、まったくそんなことはありません。
野菜だって“命”ですし、動物か植物かの違いでしかありません。
オーガニックやら自然農法やら無農薬だろうと関係ありません。どこかで何らかの命を奪って育てられています。
野菜農家育ちの私による実話ですが、まずカラスは害鳥なので巣があったら木から落として壊します。カラスを見かけたら石を投げるなどして追い払います。
ネズミは殺鼠剤やネズミ捕りで捕まえて駆除します。
害虫駆除に農薬を使わない場合でもトラップ(虫をおびき寄せて駆除する、ゴキ○リホイホイ的なもの)を使ったり、葉についたイモムシ系はその場でプチっと駆除です(私はできないけど笑)。
何が言いたいかというと、あなたの命もほかの命の上に成り立っているということから目を背けないでほしいのです。
その上で、心から感謝して命をいただく。それが“生きる”ということではないのでしょうか。
かわいそうだから食べない、というのは自分だけ安全圏にいるふりをして命と向き合わない、卑怯な行為に思えます。
「自分さえ良ければ」という考えが根底にあるのではないでしょうか。
自分が何かを踏みつけている、傷つけているかもしれないと思うのは苦しいことです。直視したくない現実です。
それを上回るような感謝や愛で、命をいただくことが私たちにできることです。
何度も書いてきましたが、家畜の命を軽んじるような生産業者は潰れてしかるべきだと思います。
しかし動物性食品だからというだけで忌避し、食べない・買わないとピリピリして過ごすというのは、みんなが幸せから遠ざかっていくのではないでしょうか。
差し出された命や大切に育ててくれた生産者に心から感謝し、美味しく味わって食べることで全員が幸せの輪にいるように感じます。
もしかしたら今後、菜食主義がより推し進められることもあるかもしれません。
その推進力が恐れや不安ではなく、命への愛や感謝であるように祈っています。
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