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彼とぼくの境目。
足痛9日目。痛みが和らいで来ると、いつもの、どこまでもどこまでも底のない井戸のなかへ落ちてしまったかのような、どうしようもない、救いようのない物悲しさと、虚しさが顔を出します。
前回
・はじめてアレをやってみた。
◆
足の痛みに気を取られている間、ぼくは自分の胸にぽっかりと空いた穴のことを忘れていました。足が痛い、足が痛い……と過ごす1日は苦痛でありましたが、嫌な思いがめぐる心配はありませんでした。
しかし、足の痛みがなくなってくると、これまで息を潜めていた鬱々とした思いが、あっという間にぼくを包み込んでしまったんです。
闇は見る見るうちに広がっていき、この部屋を、この家を、この街を、この世界を、真っ黒に染め上げてしまうのでした。
ついこの間まで、足の痛みに耐えながらも、何とか工夫をして生活していたので、頭はそのことでいっぱいいっぱいだったんでしょうね。
それが、足の心配が薄れてくると、理路整然としていた思考はぐずぐずと怠惰へ流れ、良好であった視界はどんよりと曇ってしまった……
◆
日記を書けそうにないのです。
こうして日記を書いているので「書けない」というのはおかしな話ですが、今日、自分がどう過ごしていたのか、自分でも分からないんです。
足の痛みなど非日常的な環境がなくても、ときどき、自分がどう過ごしていたのかが分からなくなってしまうことがあります。それは夜になって、日記を書こうと日中の出来事を振り返ろうとしたときに起こる……というわけでもないんです。
たとえば昼食をとったあと。自分の部屋にぽつんと立ったまま「いつもどうやって過ごしていたかしら?」と頭を抱えてしまう。
今日、あるいはいつも自分はどのようにして過ごしていたのだろう……と自分の生活を忘れてしまうときは、いつも「うつ状態」になっています。それに気づいていたり、気づいていなかったり、生活の仕方を忘れてしまったときに気づいたり、と状況はさまざまなんですけどね。
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ここ数日、その症状がよく出ていました。
つい数時間前にとった食事の内容はおろか、食べたかどうかさえ分からなくなってしまうんです。これは認知症の症状とまったく同じです。
内容だけでなく「食べたかどうかさえ分からない」というのは、脳に萎縮が起こっている可能性が高いと見て良いでしょうね。
ましてや、ふだん当たり前のように過ごしているその「過ごし方」を忘れてしまうのも、ちょっとど忘れしちゃった……ということでは済まない重度の記憶障害です。
◆
足の痛みに苦しんでいたころは、この痛みが治まったらあんな記事を書こう、こんな記事を書こう……と前向きに考えていたものです。
しかし、足の痛みが治まってきた今では、足の痛みが完全になくなっても、しばらくは精神不安定で何もできそうにないなあ、ということばかり考えています。
それどころか、痛みのことでいっぱいだった脳に、足の心配の代わりとばかりに「死」のイメージが入り込んで来る。具体性のまったくない、抽象的なイメージとしての死が、頭のなかに台風を起こしているんです。
ぼくが死を忘れられるのは、足をかばいながらおそるおそる階段を昇り降りしているときと、ご飯を食べているとき、それから母と会話をしているときだけ。
それ以外は何をしていても、ふいに悲しくなり、涙が出たり、涙さえ出ずに吐き気をもよおしたり、倒れてしまいそうなほどのめまいに襲われたり……
とにかく不快で、こんなことなら、永遠に足が痛いままのほうが良かったのではないかとさえ、思ってしまいます。
◆
足を痛めて一時的に歩けなくなってしまうことは、これまでにもありました。
三桁の体重に先天性内反足(生まれつき足が骨ごと内側に曲がっている病気)が加わることで、ほんの1時間の散歩をしただけで、その後1週間ほど歩けなくなってしまうんです。
足を痛め、そこから回復すると、いつも「自分の心はこんなに弱っているんだな」と思い知らされます。
どうにかこの悲しさ、虚しさから離れなければならない……そう思うんですが、彼はもうぼくにぴったりとくっついていて、ぼくでさえ、それがぼくなのか、それとも彼なのか、判然としないようになってしまっているんです。
あくびが出たからもうここで終わりね。
著者
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・ブログ1:たのぶろ。
・ブログ2:ダイエット宣言。