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九竜なな也
2024年10月6日 16:02
概して息子にとって、父親とは大きな存在である。それは、必ずしも何か偉業を成し遂げた父親とはかぎらない。無名で地味な生き方をしている父親でも、息子にしかわからない大きさというものがある。真希斗にしてもそうだった。しかし、はじめからというわけではない。むしろ、思春期の頃は、父の無欲でおとなしい性格に物足りなさを感じ、少し軽蔑するような気持ちもあった。真希斗がその存在の大きさを感じるようになったの
2024年10月9日 18:02
蒸し暑い夜だった。排気ガスと人の息の混った生暖かい風が吹く那覇市の国際通りから、細い脇道に入って10分ほど歩いたところに、約束の居酒屋はあった。およそ観光客目当てとは思えない、庶民的な居酒屋だ。紺色の暖簾をくぐって店に入ると、まっすぐ奥へいったテーブル席に待ち合わせの相手がいた。二人の女性が生ビールを飲みながらおしゃべりに興じている。近づく圭司に気づいて、満面の笑顔を見せた。「お久しぶり!」「
2024年9月18日 19:33
夫婦の生活は子供を中心に回った。いつのまにかふたりとも煙草を吸わなくなっていた。子供たちは逞しく育ってくれた。今はもう、みんな親元を離れて自立している。 数年前から俺は、かなり頻繁に、ひとりでこの川辺に来るようになった。 早朝のリバーサイドマルシェは今も続いており、この町の観光スポットとして広く知られるようになったが、俺が寄り道する夕暮れの時間帯は、この辺りはひっそりとしている。 俺が時
2024年9月18日 19:21
コーヒーカップに指をかけたまま、多香美は川の対岸の景色を眺めていた。対岸には平野を埋めるようにして耕作地が広がり、その向こうに山がかすんで見えた。 川面に乱反射した朝の陽光が屋外撮影のレフ版のように多香美を照らした。多香美は眼をやや細め、心地よさを満喫しているように微笑んでいた。俺はこのとき、はじめて多香美の顔をまっすぐに見たような気がした。 多香美の色白の肌は、俺が苦手とするか弱そうな透
2024年9月18日 18:18
むっとした表情で帰り支度を始めた多香美に、俺はそのまま話し続けた。「失礼なのはわかっている。でも、はじめからそのつもりで君に声をかけたわけじゃないよ。話しているうちに、今の君を抱きたいと思うようになった。これが今の俺の気持ちなんだ。今度またこの店で君に会うことがあったとしても、同じ気持ちになるとは限らない。今夜の君が、明日も同じ君かどうかはわからない。俺もそうさ」 多香美はひととき目をつむり
2024年9月18日 17:21
一時間ほど話したところで、多香美は時計を気にして帰りたそうなそぶりを見せ始めた。その反対に俺には妙な下心が生まれていた。「これから川沿いに行かないか?」「なにそれ?行かないわよ」 タクシーで10分くらい行くとゆったりとした川が流れている。その川に沿った河口寄りに男女が夜を過ごすためのホテルが立ち並ぶ一画があった。この時間帯に川沿いといえば、大人ならその意味がわかる。俺の唐突な誘いに多香美は
2024年9月18日 13:26
「珍しいね。今日はひとり?」 まるでお互いが以前からの知り合いでもあったかのような口ぶりを意識した。「こんばんは。今日はじゃなくて、今日もひとりよ。それがどうかした?」 多香美は初めの「こんばんは」だけを、俺の馴れ馴れしさを皮肉るかのように丁寧に告げ、そのあとは関心のなさそうな口調で返した。俺とは反対の方向に顔を向け、うつむき加減に煙を吹いた。「ほら、いつもよく友達と来ていたからさ」「あ
2024年9月18日 12:50
俺が多香美に声をかけたのは、店で多香美を見かけるようになって一年ほど経った頃だ。その頃から多香美はいつもの友人とではなく、カウンターの隅でひとりで飲むようになっていた。 ある週末の夜、見慣れない男女の三人連れがカウンターに陣取っていた。いつもの席を奪われた俺は、そのグループからひと席空けた右寄りのスツールに腰掛けた。 すでに来ていた多香美は一番右端の席に座っていて、俺との間に空いたひと席に
2024年9月18日 01:22
多香美と出会ったのは、小さなバーだった。飲み屋街のメインストリートから細い道に入った奥に古びたテナントビルがあり、薄暗い階段を上がった2階にそのバーはあった。 7席のカウンターとテーブル席がひとつという小さな店だ。カウンター席の正面は一面が広い窓になっていて、まばらに立つ裏通りの街灯を見おろすことができた。 この出会いが何年前だったのか、俺は正確に答えることができない。結婚したのはおそらく
2024年9月23日 18:34
女は男の浮気を見抜く鋭い嗅覚を持ち、男は鈍感で簡単に女に騙される。確かにそれはあたっているだろう。だが、女だってボロを出す時はある。俺はカズの店で飲んでいた。カズとは古いつき合いだ。彼はベテランのバーテンダーで、うまいカクテルを飲ませてくれるだけでなく、長年の経験からか人の本性を見抜くことにたけている。そんなカズに俺は一目を置いていた。「こんばんは」安美が店に入ってきた。そろそろ来る
2024年9月22日 14:11
「ねえ、ちょっと聞いて」会話の流れからすると唐突だった。盛り上がっていた話題の慣性で、か細い声で発した遥子の言葉は聞き流されてしまった。その飲み会は、同窓会のように和やかだった。集まった八人のうち五人が、前の職場の同僚なのだ。前の職場というのは新進気鋭のベンチャー企業で、業界の常識を覆す新しいビジネスモデルをいくつも生み出して話題になった。あれから20年が経った今、もうその会社はないが