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僕は皆んなの最後尾を走るよ
人を救いたいと思って、noteで文章を綴ってきましたが、ひとつはっきりとさせておこうと思います。
僕のnoteでの言葉であなたの生き方を変えられるとはそこまで思っていません。
自己啓発的な文章での生き方の提案などではなくて、同じく生きることに悩める者としての言葉を紡ぐことに意味があるのではないかと感じています。
だって、僕もまだ克服できていないことだらけだから。
何かを克服できて、その為の方法を認める(したためる)ことは今後あるかもしれませんが、基本的なスタンスとしては一緒に生きづらいこの世の中をどうにかこうにか生きていこうよ、というものです。
僕はビジネスの成功者ではない。
僕は有能なカウンセラーでもない。
僕は精神疾患を抱えながらなんとか生きている、特別突出した才も無い、唯一物を書くのが好きなだけの少し悩みを抱えたただの凡人です。
そもそも僕はリーダー気質ではないのだと思っています。
中学の時は3年間、毎年3学期の内のどこかで必ず学級委員長を務めていました。
部活では剣道部で最上級生になった時に部長も任せて頂きました。
ですが、これは中学以前の話ですが、小学校の頃の担任の先生は家庭訪問の時にその先生が僕の母にこう話しました。
「ひろき君は皆んなをよくまとめてくれますが、先頭に立って皆んなを引っ張るというよりも、先頭の子が引っ張っていった時にそれについていけない子を逸れ(はぐれ)ないようにフォローするような役割をしてくれています」
母もその通りだと思うと言っていました。
僕自身も自分はそういうタイプであると思っています。
皆んなを先頭で引っ張っていく責任を持つのは難しく感じます。
スーパーヒーローの主人公ではなくて、僕は脇役でサポート係なのだと思います。
勿論、皆さんは自分の人生で主人公になっていいと思います。
ただ僕は主人公みたいな役割が性に合わないというだけです。
誰かの人生を劇的に変えることはできないかもしれない。
それよりも居場所が無くて苦しい思いをしているような、そんな人の落ち着ける場所でありたいのです。
居心地の悪さで感じる「息苦しさ」は、云うなれば
「生き苦しさ」であるのだと思います。
生きることが苦しいと感じる人の人生を大胆に変える力は僕には無いのだと、いい意味で折り合いをつけました。
ただ、人を救いたいという目的を捨てた訳ではありません。
僕は皆んなが走る人生のレースの最後尾を走ります。
誰かが転んだ時、後ろを見ればまだ僕が後ろに必ずいるのであなたは決して最下位にはなりません。
なのでそのレースに負けることは無いので安心して下さい。
時には、転んでなかなか立ち上がれそうにない人の側に行き再び立てるように手を差し伸べることもあるでしょう。
どうにも転んだまま立ち上がるのが相当困難な人の場合は、またもやその人の側に付いて僕の肩を貸して、一緒に走りましょう。
最後尾を走っているからとて、立ち止まっている訳ではありません。
あくまで皆さんと一緒に生きた僕も走りながら、が前提です。
僕の遺すnote
僕の紡ぐ言葉
僕の綴る文章
僕の認めた文字
僕の発する声
僕のそれらは悩める誰かの心の隣にそっと静かに寄り添うものでありたいと思うのです。
何故なら僕自身も精神疾患に悩む当事者だからです。
悩める当事者だからこそ理解できることや、届けられることがある気がするのです。
僕もいずれ快くなる日を諦めずに少しずつ進んでいくのでしょう。
成功体験も素晴らしいと思います。
ただ、何かで成功したいというよりも、苦しまずに生きていたい。
それでいて尚且つ(なおかつ)誰かの力添えになりたい。
僕はそれで充分です。
いくらでも下に見られても構いません。
それであなたが安心して生きていけるのなら。
あなたの好きなように僕をあなたの心に写して下さい。
あなたの人生に少しでも幸の多からんことを願います。
それでは、また。
ひろき