【読書感想】『けものたちは故郷をめざす』
今年は安部公房生誕100年ということで書店のイベントコーナーや『箱男』の映画化など、にわかに露出が増えていたので、なんとなく興味本位で手に取ってみた。
そういえば高校2年のときに教科書で「赤い繭」を読んでから、シュールな作風に興奮して他作を読み漁り、すっかり安部公房のファンになったものの、もう30年以上も昔の話だ。
安部公房から遠ざかったというよりは、読書から遠ざかっていた時期が長いのだが、なんだかんだで安部公房作品はほとんど読んでいる。
しかしながら「けものたちは故郷をめざす」は、なぜか家の本棚にはなくて、読んだのは今回が初めてだ。
ブラックユーモアが効いたシュールで不思議な世界観が安部作品の一番のお気に入りだったこともあって、シュールな要素の無いこの作品は、10代の少年にとっては、どうやら興味を惹かれなかったらしい。
今回、50歳になって出会うべくして出会えた作品なのかもしれないと思いたい。
端的に言って、めちゃくちゃ面白かった。
第二次大戦の敗戦間近の満州国が舞台。満州生まれ満州育ちの日本人 久木久三が故郷の日本を目指して極寒の荒野を彷徨う逃避行という単純なストーリーだが、極限状態の描写がリアルでどんどん引き込まれた。
とにかく身につまされるほどに、リアルなのだ。
文学の表現でしか味わえない面白さが詰まっている。
そして、極限状態にあってもどこかしらユーモアにあふれるのが、やっぱり安部文学の真骨頂で、読みながら何度も爆笑してしまった。
確か、彼は生前のインタビューで自身の小説について「空の上から撮った航空写真のように、無限の情報が込められたもの」と表現したから、彼自身は作品におけるテーマなんて設定していないのだと思う。
自分なりの解釈をして、好きに読めばいいだろう。
なぜ久三はこれほどまで日本に固執したんだろうか?
という日本人としての同属意識にボクは焦点を当ててみたい。
命からがら、ようやく日本への船に乗り込む算段をつけた久三は、港への道すがら我慢しきれずに尋ねる。
「日本、どんな具合ですか?」
一面の焼け野原だと告げられたとき、
「桜の木も、焼けたんでしょうね」
「桜?・・・桜なんて、おめえ、どうってこともないじゃねえか」
「ぼくはまだ、見たことがないんですよ」
「どうってことはねえさ、おめえ、おかしな野郎だな・・・」
桜の木を教科書でしか知らないために、過度な憧れを抱く久三。
「桜」が日本人としての同属意識に根付いているようにも描かれているが、同じものを見て同じようにキレイだといい、同じ物事をみんなで知っているのが、ひとつの共同体としての形だとしたら、今の我々の意識はどんどん変化していっているように思えてしまう。
ボクらが子供だった頃は、テレビが最大の娯楽だった時代。
お茶の間ではテレビを囲んでドリフターズのコントを観ながら笑い、翌日学校に行けばクラスのお調子者がカトケンの物まねをしてみんなで笑った。
歌番組に出てくるアイドルはみんなが知っていて、みんなで同じ歌を口ずさめた時代。
そう、ちびまる子ちゃんの時代。お茶の間がまだあった時代のことだ。
YouTubeやSNSが主流となった今、同じものを見て同じように笑ったり泣いたり、同じ物事をみんなで知っている、という共同体はどんどん減少して、よりニッチな方向へと加速度的に進んでいる。
海外放浪するバックパッカーが僻地で出会った日本人に、
「こんな寒い日には、やっぱりお鍋に限るよね」
と言ったところまったく共感を得ず、
「わたしはトムヤムクンが食べたいな」
と返されたような寒々しい気分になってしまう。
食の好みは人それぞれ、といえばそれまでの話だけれど、同じものを食べて、同じように美味しいねと感情の交換ができることは大事なことだと思う。
感情の交換
感情の交換の機会が減るということは、同属意識の低下につながらないのだろうか?
そもそも、ボクらは何をもって日本人だとお互いが確認し合えるのだろうか?
日本人としての同属意識はどこにあるんだろう?
最近では、欧米で80年代のシティーPOPが流行り、寿司屋やラーメン屋、丸亀製麺は海外でも行列を作っている。
日本のアニメは世界中で繰り返し放送され、日本語を学ぶ人も多いんだとか。
日本語を話し、侘び寂びを好んで、日本人以上に日本人のような外国人をたくさん見るようになった今、ボクらは何をもって日本人と確認できるんだろう。
そんなことを思いながら、この作品を読んだ。
久三が死に物狂いで焦がれた日本は、まだここにあるだろうか?
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