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読書にある喜び
久しぶりの読後感に浸っている。
「屋根屋」は夏に帰省した時、地元の小さな本屋さんで見つけた。横目で見ながら前をウロウロすること数回、なんとなく気になって手に取った。正直、惹かれるタイトルではなかったし表紙に書いてある紹介文も、よく意味が分からなかった。村田喜代子という作家を全く知らなかったので興味が湧き、そんなに期待もせずレジへ持っていった。
そしてドイツ帰国後、自分の部屋にある小さな本棚に並べて置いておいた。
雨漏りの修理にきた屋根屋、永瀬は、妻の死をきっかけに心を病み、治療のために夢日記を付け始め、今では夢を自在に操れるという。永瀬に導かれ「私」は夢の中で落ち合うようになる。奈良の瑞花院吉寺へ、そしてフランスのアミアン大聖堂へ。空を飛び、時を越え、夢と現実のあわいに二人が行き着いたのは……。
〈解説〉池澤夏樹
最近、読書の時間が消失していることがずっと気になっていた。
それなのに気がついたらインターネットの世界に耽っていて、紙の本を捲る感覚が遠くなってしまった。
以前はずっと切れ目なく本を読んでいたというのに。。
反比例するように13歳の娘は、用事で一緒にボンの街に出ると本屋に行きたがるようになった。そこで時間をかけて辞書みたいな小説を何冊も選んで来る。
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4、500ページは当たり前で中には700ページのものも
上下巻で分けたりはせずドドーンと分厚い
紙の質のせいか意外と軽い
左の本はページの背まで緑色と派手
◇
私がまだ親元にいた10代の頃、母親はいつも「本だったら何冊でも買ってあげる」と言ったものだった。そして本当に、私がレジのお姉さんが引いちゃうくらい本を積み上げても約束を守ってくれた。
思春期で鬱屈の塊で、反抗が酷かった当時の私にも母のこの姿勢は立派というか、有難く思っていた。
今は私が娘に“本なら何冊でもいいよ”と言う番。ただこちらは日本のようなリーズナブルでコンパクトな文庫ではなく、ドドーンと立派で値もそれなりにする。
図書館に通って待ちながら読む方が良いのだろうか...と思うが、読んだ本を本棚に戦利品の様に並べて嬉しそうな顔をする娘はもちろん「自分だけの本」が欲しいと思っている。
親にされて嫌だったことは忘れずに、それを子供にはしないように。
親にして貰って嬉しかったことは、同じように子供に渡していきたい。
読書好きな長女に比べて、下の男子二人は全くと言って良いほど本を読まない。
今年に入ってすぐ娘との会話で、やはり何とか男子達に働きかけなければ....と焦りを感じた。
「13歳くらいまでに本を読む習慣が無いと、その後いくら本を読もうと思ってももう頭に入らないんやで!」
どこで仕入れた知識か得意顔で話す長女は最後にもう一度こう言い放った。
「あの子達もうヤバいで。全然読んでないもん」
私仕込みの関西弁で言われて胸にドシンと響いた。
思い返せば私がしっかり本を自分で読み始めたのが、小4くらいの時だった。
児童向けの「シートン動物記」や江戸川乱歩の小説、ズッコケシリーズ、それからもっと長く読み応えのある小説を読んだ。
小6で夢中で読んだジューヌ•ベルヌの「神秘の島」と「海底二万海里」の面白さは生涯忘れないと思う。私が海底に想いを馳せ、来世は鯨になりたいと思うのはこの本のせい。
あの時以上の感激はもう体験出来るとは思えない。
でもそういった経験が一度でも出来たことはとても幸せだと思う。
日本語でもドイツ語でも何でも良いので本を読む愉しさを知って欲しい。
それで朝読書の時間を持つことにした。
朝15分早く動き出せば、学校へ行く前に読書の時間が持てる。
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朝読書の素晴らしさは日本の小学校の取り組みで知った。
数年前、子供達が奈良の小学校に通った時に小2だった娘はクラスで朝読書を体験している。
ドイツ帰国までの約1年間で日本語の本を読むようになり、朝の10分,15分の読書の偉大さに驚いた。
実は昨年、朝読書を導入したことがあったが根付かなかった。敗因は母親の私が参加しなかった事かと思う。今回は娘が言い出しっぺの様な感じだったので、朝読書の促進になった。
(一番上の兄弟のやる気が肝心)
ちょうど新年になったところだったし私自身、自分の読書離れに危機感を抱いていたのでタイミングが良かった。
15分早く起きる決心がついた。
1秒でも長く寝床にいたい私にとって大袈裟ではなく画期的な試みだったと思う。
昔の私の印象しかない母は電話口で目を丸くしたようだった。
男子達もそう嫌がらず、朝の7時10分からの10数分を読書するようになった。
今のところ、月曜日から金曜日までの朝読書は続いている。
◇
小説はやはりある程度詰めて読んでいかないと、その面白さを充分に味わえない。
「屋根屋」は4日間で読み終えた。
私にとっての良い小説とはこの2つが有ること。
「登場人物がリアルに感じられる」「読後感があり忘れ難い印象が残る」
どれほど話が非現実的でも、登場人物に感情移入ができるほど人物像がしっかりしていればストーリーを受け入れられるし、最後まで読み切る推進力になる。
物語の人物に愛着が湧き、別れが悲しいと感じれば、その物語も登場人物も心の中から簡単には消えていかない。
それが読後感に繋がり余韻に浸ることができる。それが読書の醍醐味だと思う。
「屋根屋」は正にそんな物語だった。
夜眠る時にみる “夢” の話だが、水底に潜って行く様な夢行きは、時間や空間の制限を受けない(夢だから)。
現実よりもリアルな夢の中で屋根屋と主婦の女性は時を重ねていく。
読み進めるうちに、どこまでが本当だったのだろうか...と輪郭がぼやける様な水のゆらめきの様な気持ちになってゆく。
夢の世界で遊ぶ二人は、誰よりも互いに近いようで遠い。
想いは届かない...
日本の名刹の寺も大聖堂も、どちらも今まで見てきたけれど“屋根が別世界を湛えて存在している”とは考えたことがなかった。
実際にそれらの屋根を作った職人が居て、歴史に埋もれた市井の人の人生に想いを馳せるシーンが何度もあった。
時の彼方に立つ彼らも皆それぞれの人生を生きていたはずなのだ。
私が手に入れたのは文庫で知らなかったが、読み終えてこの小説のことを調べた時に、単行本の装丁がシャガールだったのを知ってびっくりした。
ナゼってついこの間まで熱心にシャガールの記事を書いていたものだから。
こういう不思議なシンクロがあると、なんと云うか人生が広がって行く気がして、思わぬ副産物みたいで、なお余韻が深まるのだった。
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