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読書感想  『戦前の正体』 辻田真佐憲 「知らないままでいることの危うさ」

 幼稚園児に軍歌を歌わせたり、教育勅語を暗誦させたりする風景が、一時期、毎日のようにテレビ画面でも流れたことがあった。その姿は異様に見えた。

 それに対して、戦前回帰、という批判がされて、視聴者としてもそう感じていたのだけど、おそらく知っている範囲だけど、一人だけ違った視点を示している人がいた。

 あれは、実に戦後的な光景で、本当に戦前だったらありえない。

 そんな指摘をしている辻田真佐憲氏は、軍歌などに詳しい著者という印象だったし、本来であれば、本当に戦前を知っているような、もしくは、もっと戦前に近い人間がするべき解釈を、1980年代生まれの「若い」といっていい人がしていたことに違和感があった。

 ただ、それは、単にきちんと知っているという強さだった。
 本来であれば、批判するのであれば、そして「戦前回帰」という表現を使うのであれば、その「戦前」のことを少しでも正確に知っておくべきだという原則を改めて感じられた。

 辻田氏の指摘は、「知らないままでいることの危うさ」も教えてくれたように思った。


『「戦前」の正体  愛国と神話の日本近現代史 』  辻田真佐憲 

 戦前のことは、親の世代を通して、知っていることはあった。
 かなりの年齢になっても、そうした世代の人たちは、「教育勅語」も、神武天皇から連なる天皇の系譜も、普通に暗唱できていた。

 だから、何しろ神話である神武天皇や、天皇制を絶対視していた時代というようなイメージしかないのだけど、考えたら、どうして、そういう体制になったのか、については、詳しくは知らなかった。

 最近になって江戸時代、特にその末期には、何しろ徳川幕府の存在は大きかったのだけど、それに比べると、天皇の存在は忘れられていたのではないか、といったことも聞くようになったから、それだけで歴史の見え方も少し変わる。
 それと同様に、神武天皇の存在も、この『戦前の正体』を読み進めると、確かにその意味合いが変化していく。

いずれにせよここで重要なのは、なぜ幕末になって神武天皇が急に思い出されたかだ。先回りして言えば、それは明治維新に都合がよかったからにほかならない。

(「戦前の正体」より)

 誰かが世の中を変えようとして、実質的な力を持ったとしても、それだけで、人間の意識そのものまでを従わせるのは難しい。そんなことも、「神武天皇」にまつわる神話は改めて教えてくれるようだった。

ほとんど白紙状態ゆえに、新政府は「これが神武創業だ!」と言いながら、事実上、好き勝手に政治を行えるからだ。つまり「神武創業」は、「西洋化」でも「藩閥政治」でもなんでも代入できる魔法のことばだったのである。

 正面からヨーロッパ化しようと言えば、反発を招きかねない。だが、武を重んじていた神武創業に帰るといえば、たとえ洋服の採用でも伝統に則っている気がしてくる。このようなトリックで、ひとびとのプライドをできるだけ傷つけず、すみやかに西洋化を図ったのである。 

(「戦前の正体」より)

 明治以来、あれだけ速やかに西洋化に成功したことは、今から振り返っても不思議ではあるものの、こうしたことを知ると、少し謎が解けたような気持ちにもなる。

あえて一言でまとめれば、神武天皇は実在しなかったからこそ(あるいは現実からかけ離れた神話上の存在だったからこそ)、さまざまな願望や妄想をかぶせることができた。

(「戦前の正体」より)

 こうした、明治政府にとっての神武天皇の存在については、さらに歴史的な事実に照らし合わせれば、細かい点では異論も出てくるとは想像もできる。 
 ただ、これまで、戦前の思想についての批判も何度も聞いてきたことがあったものの、こうして大づかみに、その大きな流れを説明をしてもらうことで、初めて、明治政府の思惑が少し理解できたような気もしたし、いろいろと考えることもできた。

 明治政府は、西洋の列強に対抗するために、なるべく速やかに国民(というのも新しい概念のはずだったけれど)を一つにまとめなくてはいけない。そのために、天皇という中心を必要とした。そして、その存在の正当性を強化するために、持ち出してきたのが「神話」だった。

 だが、その推進力は制御できないものになっていったようだ。

ワクチンとしての思想

 21世紀になった現在でさえ、日本は、今も中心的な役割を担う西洋諸国から見れば、東の外れの国になる。さまざまな文明や文化も、ずっと「外」からやってきている。そうなれば、ふと世界という存在を考えた時には、どうしても劣等感を持ちやすい。

 それは、明治時代を迎えた日本でも同様だっただろうし、アジア各国が西洋諸国によって植民地化される現実を見ていたら、もっと切実な問題となって、早く「西洋化」しないといけないと考えていたはずだ。

 さらには、劣等感が強い場合は、それが、どこかで逆転した場合は、信じられないほど巨大化した自信のようなものになる可能性もある。ただ、根拠のない自信は難しいので、どこかで、支えてくれるものも必要となる。

 それが、「戦前」の日本の場合は「神話」だったようだ。それは、最初は成功したとしても、途中から、暴走としか思えない状況になったように思える。

日本神話は国護り以前のエピソードがいくつも存在する。そこでは、どのように世界ができたのか、そしてどうしてアマテラスが高天原を主宰し、オオクニヌシが中つ国を主宰するにいたったのかなどが語られている。
 そしてじつはこのような部分こそが、近代になってオカルティックな思想や超国家主義的な主張の根拠になり、世界は日本のものだという奇想天外な妄想を生み出すことになるのである。 

(「戦前の正体」より)

 その「妄想」のようなものは、私は、詳しくは知らない。だけど、今回、その概略とはいえ、初めて知った。こんなことを信じるなんて、とは、その時代にいなかった人間ならば言えるのかもしれないが、コロナ禍で「陰謀論」といえるものに、想像以上の人たちがハマったことを振り返ると、それは、なお21世紀になっても、「現在の課題」でもあると思えてくる。

 日本にはこれまで、『古事記』『日本書記』を用いて雄図を描いた人間がいたということが大事なのである。そしてその物語を知っておくことで、今日似たようなものが出てきたとしても、「また同じものか」とそれに騙されなくなる。いわばワクチンとして超国家主義的な思想に触れておく必要があるのだ。

(「戦前の正体」より)

 例えば、こうした「文献」にまつわる話もある。

 じつは『日本書紀』には、目を疑うような記述がある(中略)。つまり、ニニギの天孫降臨より神武東征の直前までで、一七九万二四七〇年以上たっていたというのである。
 一般には、ただ数字を盛っただけと考えるだろう。だが、記紀神話からなにか重大なものを読み取ろうとする人間は、想像力を掻き立てられずにはいられなかった。じつは、神武天皇のまえには「隠された歴史」があったのではないか、と。
 このような想像力をめぐらしたもののなかで、もっとも有名なのは『竹内文献』である。
 その内容はじつに驚くべきものだ。なんと、神武天皇のまえには、神皇二五代、ウガヤツキアエズ朝七二代、合計九七代の天皇が存在していたというのだ。それだけではない。(中略)「天皇即位百億十万歳」のできごとだと書かれており、とても正気とは思えない。

 蛇足ながら、われわれの科学的な知見では、地球は四六億年前にできたとされることを念のため付け加えておく。

(「戦前の正体」より)

 ただ、その「竹内文献」は、戦前には軍人に人気があったらしい。それを考えるだけで、ちょっと怖くはなる。

『竹内文献』のように、『古事記』『日本書紀』よりもさらに過去にさかのぼる記録と主張する文献は古史古伝と呼ばれる。
『竹内文献』にさきだってウガヤフキアエズ朝の存在を主張した『上記』や、富士山こそ高天原と主張した『富士古文書』などが存在し、現在でも根強く読みつがれている。
 こんなものに騙されるものなどいるのか。そう思うかもしれない。ところが、専門的な知見をもっているはずのものですら、しばしばこの泥沼にハマってしまう。
 戦後まもない時期に、靖国神社でナンバーツーの権宮司を努めていた、横井時常もそのひとりだった。

(「戦前の正体」より)

「妄想」としか思えないものが、人に影響を与えると、実際の世の中の動きにまでつながってしまうことはある。

構造的な欠陥

 神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家の大日本帝国は、それゆえに、オカルティックな想像力に飲み込まれやすいという構造的な欠陥を抱えていたのではなかったか。
 あくまで民間の思想にすぎなかった世界制覇の野望は、弱小国家だった明治時代位は妄想にすぎなかったけれども、列強の一角を閉めるようになった昭和には現実の延長線上のように勘違いされた。
 やがて政府が八紘一宇を掲げるようになると、神話的想像力はさらに大きく盛り上がった。そのときにふたたび呼び出されたのは、やはり神武天皇にほかならなかった。

(「戦前の正体」より)

「八紘一宇」という言葉は、私も知っていた。
 それは、教育勅語や、神武天皇以来の天皇の名前を暗記していたような親の世代の人から聞いたことがあったからだ。だけど、それは戦前を支えた思想の一つとして、忘ら去られると思っていたから、2010年代になって、戦後生まれの国会議員によって、「八紘一宇」を力説されるとは思っていなかった。

 だけど、その議員は、本当に「八紘一宇」のことを理解していたのだろうか。

よく知られるように、八紘一宇ということばは、日蓮主義者の田中智学によって一九一三(大正二年)三月に造語された。
 国立国会図書館のデジタルコレクションでは、より先行する使用例が見つかるのだが、後世に影響があったのは田中によるものである。

 神武天皇が述べた「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい東征ののちは平和的に日本を統治しようという程度の意味だったと考えられる。それがまさか、世界統一の話になろうとは。『日本書紀』の編者たちが知ったら驚くにちがいない。

 それでも、「戦前」は、信じたい人たちの気持ちが強かったせいか、その言葉は、今では想像もできないほど広く、深く、浸透していったようだ。

 とはいえ、八紘一宇はなんとなく時代の空気をあらわしたことばではある。よく聞くけれども、ぼんやりとしていて、中身を聞かれるとはっきり答えられない。にもかかわらず、錦の御旗として掲げられると抗いがたく、動員されてしまうーー。
 こういうことばこそ、むしろ危険なのではないか。

(「戦前の正体」より)

 そうした危険性は、2010年代になっても、国会議員が、国会という場所で語ってしまう姿を見ると、改めて意識してしまう。

 そして筆者は、物語を否定するのではなく、新しく物語を掲げ、上書きすることによってしか、過去の神話も本当の意味で忘れ去られるのは難しいのではないか。といった主張にまでたどり着いていて、ここまで戦前の物語、神話について伝えられ、考えられた後だと、とても説得力があった。


 この記事に引用したのは、著書の一部に過ぎないので、「新しい戦前」と言われるような時代にこそ、「戦前」のことを大きな流れとして捉え、「戦前の全体」を大づかみでも、まずは知り始めることが、今を再び「戦前」にしないためにも、必要なことだと思いました。


(こちらは↓、電子書籍版です)。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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おちまこと
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