テレビについて(67)『勝手に「テレ東批評」』は、なぜ面白いのだろう?
テレビ東京の土曜日の午前11時くらいの枠は、「あちこちオードリー」が突然始まって、この午前中に、こんな番組をやっているんだ、という小さいけれどうれしい驚きがあり、おそらくすごく多くの人がまだ見ているのがテレビなのに、自分だけが見つけたような気持ちになれた。
と思ったら、「あちこちオードリー」は水曜日の午後11時台に移って、オンラインライブでも何万人も視聴されるような番組になっていったから、まるでこの土曜日午前の枠はお試しで、そこから飛躍していく場所なのかも、と思っていた。
「テレビ批評」という番組
「テレビ批評」といったタイトルの番組は、テレ東以外でも見たことがある。午前5時台、という視聴者層が見られないというよりも、申し訳ないけれど、それほど見せたくないのでは、と思えるような時間帯の放送局もある。
録画して見たことがあったが、その印象は、怖い担任の先生がいる学級会だった。確かに、その放送局の批評をしているものの、それに対して、どうしていくのか、といったことや、そうした批評という外部の視点は必要だけど、でも、なんというか義務感のようなものの方が色濃く漂っているようだった。
それほど続けて視聴することができなかった。
批評を本当に行うのであれば、その内部ではなく、外部にいた方がいい。だけど、距離がありすぎたりすると、与えられた課題について、議論することになるのだろうけれど、それは、もしかしたら、その課題ではなくてもいいのではないか。といった気持ちになる。
つまりは、議論する人がいつも考えているテーマを語るための「材料」になっているような気がすることもある。どうしてそうなるのか、といえば、そういう「正式」な場所で、テレビ批評的なことを語る人は、今もまだ「よくテレビを見ている人」ではないからではないか。
それほど詳しくは知らないので、もしかしたら正確な知識ではないかもしれないが、文芸評論家は、よく本を読んでいるはずだ。野球評論家は、野球をしていた人で、しかも野球に詳しい人が多い。映画評論家が、映画をあまり見ていない、ということは考えにくい。
何かの批評を語る人は、その分野に詳しくて当たり前のはずだった。
ただ、批評という知的な行為を行なう人は、テレビばっかり見ているような人ではない。というような偏見が(おそらく今も)あるせいで、テレビ批評の解説を本当の意味で担える人が、ほとんどいなかったから、テレビ批評が盛り上がっていなかったのではないか。
(活字では、テレビのことを書く人は多いですし、ドラマに関しては質の高い書き手の方も、確かにいらっしゃると思うのですが、テレビ番組全体を正面から批評したり、さらにはテレビで話をできる人は、ほとんどいないと思っています→いらっしゃったら、こちらの不勉強ですみませんが)。
伊集院光&佐久間宣行の勝手に「テレ東批評」
そんなことを改めて思うようになったのは、伊集院光と、佐久間宣行の二人が「テレ東批評」をおこなうようになってからだった。
あまり知らなかったけれど、芸能界一の「テレ東フリーク」らしい伊集院光が、テレ東のことを批評するのであれば、それだけで面白そうだった。
何しろ、今の伊集院光は、自分が知らないことの膨大さを分かりながらも、特に興味があること、好きなことに関して話をしたら、ほとんど万能だと思っていたせいもある。
そのことに詳しい人が、そのことについて語れる知性を十分以上に持ち合わせている。
それだけで、勝手に、という枕詞を置いているのだけど、テレビ批評としは、魅力的になると思えた。
さらに、その話す相手が佐久間宣行。元テレビ東京の社員で、今は退社している。それで外部の視点とは言えるのだけれども、テレビ東京でも仕事をしている、という微妙な距離感にいて、どちらにしても現場に詳しい人のはずだ。
その二人が話をするのだけど、伊集院光が、本当に好きでテレビ東京を見ているのがわかるし、その上で、自分が面白いと思っている点を、見ていない人間に対しても、伝わるように話をする。
テレビに詳しく、その魅力に関して、理性的に語れる。しかも、テレビが好きな人が話すと、こんなに「テレビ批評」が面白いことがわかった。
さらには、何十年も、もしかしたらとても嫌なこともありそうな、このテレビ業界にいながら、それでも、まだ新しくて面白い番組はできるのではないか、と信じていそうな佐久間宣行との話がはずむ。
この番組を見て、それまで全く興味がなかったのに、視聴したテレビ東京の番組もある。さらには、個人的な感想に過ぎないのだけど、番組よりも、伊集院の批評の方が面白かったこともあった。
また、それまで見ていたはずなのに、考えつかない、もしくは、そこまで見ることができなかった部分まで伊集院が指摘することによって、番組の見方が変わって、それは一種の洗脳ではないか、などと思いながらも、視点が変わる面白さを感じたりもした。
これが、面白い批評なのだと、思わされた。
池谷実悠アナウンサーという「発見」
さらに、この番組には、進行役のアナウンサーがいる。
失礼だけど、それまでほとんど知らなかった池谷実悠アナウンサーという人だったのだけど、佐久間氏が的確に話を向けて、その発言を佐久間と伊集院が広く受けることで、あっという間に、どんなキャクターなのかがわかり、この番組のエンターテイメント性をさらに高めてくれた。
テレ東のアナウンサーでありながら、興味があるものしか見ない。だから、この番組で扱う番組も見ていなかったりする。宝塚が好き、というので、華やかなものを好むのだろうな、と推測もできるし何より自分が大好きなのは伝わってくる。自分が出たかった番組に出ている同期のアナウンサーへのうらやましさも隠さない。
あまりにも率直なので、清々しいくらいだった。
ただ、そうした(自分のこと、もしくは身近な人以外に)興味がない人が一人いることによって、その存在に対して、テレ東の番組の面白さを伝えようとすることで、伊集院らの表現がさらに工夫がされているように思えるから、すでに池谷アナの存在も必要不可欠になっている。
それでも、あえてなのか、やっぱりやりたくないことをやらないだけなのか、こうした興味がないことしか見ない、というのはある意味では視聴者代表ともいえるから、この番組にアナウンサーでありながら、視聴者の感覚を失わない人がいるのも強みだと思う。
そして、そこにゲストが来て、それはいわゆる「番宣」なのだけど、その内容はネタバレになるから言わないとしても、見たくなるような話が、そこで出てくるようになっているのは、伊集院らの興味の持ち方が、これだけの芸能生活をしているのに、まだテレビが好き、という純粋な視点を失っていないせいだと思う。
私のような人間を含めて、プロでない人間が、こうしてテレビ番組のことを考え、表現したりするけれど、伊集院光の批評を聞いていると、現場も知り尽くすほどのキャリアがあるのに、視聴者としてのアマチュアリズムを失わず、その上でプロの表現力による批評だから、本当にすごいと改めて思わされる。
だから、この「勝手に「テレ東批評」」は面白いのだと思う。
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