読書感想 『この世の喜びよ』 井戸川射子 「名づけられない幸せ」
前作・『ここは、とても速い川』については、作家・保坂和志が、涙を流した、といったことを言っていたので、読んだ。
あまり経験したことのない速い文章のリズムなのに、静かな感じがした。
それでも、泣くまではいかなかったので、きちんと読めなかったのではないか、といった不安もあったのだけど、不思議な感触は残った。
井戸川射子は、1987年生まれ。だから、新しさを伝えることもできるはずなのに、すごく新しい感じはしないし、かといって古くもない。というよりも、作者の年齢自体がわかりにくかった。
『この世の喜びよ』 井戸川射子
ここに、2023年『この世の喜びよ』で第168回芥川賞受賞、というプロフィールが加わる。しかも、井戸川は、国語教師でもあるらしい。
ただ、詩も小説も、どちらも、この短期間で高い評価を得るような、そうした世間的な成功の華やかさと、小説の作品の質は、かなりギャップがあるような気がするほど、静かな気配に思えた。
この『この世の喜びよ』は、前作『ここは、とても速い川』とは読んだ時の印象は違うのだけど、でも、独特で、他ではあまり読んだことのない不思議な感触があるのは、共通している。
今も、現役の国語教師を続けているとしたら、そうした芥川賞作家は、おそらくはこれまでは存在しなかっただろうし、どんな授業をしているのだろう、という下世話な興味は広がってしまうが、そうした邪推とは無縁に、地道に誠実に仕事をしているのではないか。
そんなことを思ってしまうような作品だった。
見守られている感覚
『この世の喜びよ』。
主人公は、「あなた」と呼ばれている女性。喪服売り場で働いていて、娘二人は成人している。そして、その生活の中で、過去の時間の記憶が、自然にはさまされてくる。今働いているショッピセンターには、子どもを育てている頃から通っているから、それは、まるで過去と現在が重なっているようでもある。
そのうちに、主人公は、フードコートによく来ている女子中学生と知り合いになる。その中学生は、歳の離れた、とても幼い弟の面倒をみているから、それも含めて、話もできる上に、ショッピングセンターのプレイルーム的な場所にいるときは、主人公の過去の記憶が、すぐそばにあるように浮かぶのが、より自然に感じてくる。
最初は、「あなた」という2人称が不自然に感じたりしていたのだけど、そのうちに、その呼称の選択が、描写が正確すぎることの押し付けがましさを減らしたり、誰も見ていないとしても、誰かが見守っている気配や、過去の行為への控えめな称賛にも思えてくる。
名づけられない幸せ
最初に読んだ時よりも、こうして、もう一度、この小説を振り返って引用をしたりもすることで、その文章が、普段は気づきにくく、記憶にも残りにくいような、生きている時間を確実に描写しているようにも思えてくる。
そうした思いは主人公のものであるのだけど、「あなた」と言われることで、「名づけられない幸せ」な場面は、客観的な視点から、より克明に再現される。
そして、読み進めていくと、生きている時間は、本当は過去と現在と未来さえも、はっきりと分けられないのではないか、というような思いにもなってくる。
混じり合う感覚
そして、生きる時間というものは、もうすぐ、また新しく幼い弟が一人増える女子中学生の時間とも、微妙に混じり合っていくような感覚もある。
「この世の喜びよ」という、ストレートすぎるタイトルも、読み終わる頃には、かなり正確なのではないか、といったようにも思えてくる。
この書籍には、他に『マイホーム』と『キャンプ』という短編が収められている。
モデルルームに泊まる女性の内省と、子どもたちのグループでの、その時にしか交わされないような会話や行為が描写されているけれど、どちらも、本当にそういうことがあったのではないか。というリアルさがありながら、それが赤裸々という押し付けがましさではなく、気がついたら、そこにいるように描かれているように思えた。
少し時間が経つほど、そんなふうに思えてくるが、それは、あからさまでないから、余計に、そのすごさがじわじわと沁みてくるようだった。著者自身は、「すごい」という形容詞を、あまり好まないようにも思えるのだけど。
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