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「感染拡大」を防ぎながら、「経済を動かす努力」を、これからも続けるべき理由。

 実質的に、感染者数を減らすというよりは、とにかくコロナ禍は終わった、という印象を強める方向へ、政策が進んでいるように思う。

現実逃避

 例えば、2023年5月に新型コロナウイルスの分類を「5類」に移行後は、感染死者数の発表は、最長で5ヶ月後になる、という報道も出ていた。

新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けが季節性インフルエンザと同等に変わるのに伴い、厚生労働省は感染者の死亡者数の統計について、最短であれば死亡から2カ月後に公表することにした。病院からの報告を求めている現行の方式を取りやめる影響だ。目の前の感染状況が不透明になり、感染対策が取りづらくなるとの懸念が専門家から上がる。

 もちろん、現場である病院の負担を減らすことは大事だと思うのだけど、専門家の指摘のように、そんな変更があったら、現時点での感染状況が、実質的には「見えなくなる」。

 こうした動きは、感染を少しでも減らし、感染死者数を一人でも減少させようとしながら、社会や経済を再起動させるという、困難かもしれないが、必要な努力を放棄しているように見える。

 一種の「現実逃避」とは言えないだろうか。

インフルエンザ並み

 新型コロウイルスを、「5類」に移行する際に、比較対象となるのが、「季節性のインフルエンザ」で、「コロナは、ただの風邪」という人は、やはり、まだ特殊な主張とも思えるのだけど、3年が経って、ワクチンもあるし、「コロナはインフルエンザ並み」という表現は、もっと一般的にされるようになった印象はある。

 ただ、その表現すら、実は、まだ時期尚早ではないだろうか。

 例えば、特にコロナ禍初期に、一部の人が主張していたのが、インフルエンザと新型コロナウイルスでの感染死者数の比較だった。

新型コロナウイルスによる死者数については2020年が3507人、21年が1万4908人、2022年は3万8881人を記録しています。

例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。
国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1818(2005年)人です。
また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。

 確かに、コロナ禍初期の2020年では、感染死者数は、1万人以下だったのだけど、2022年には、3万人だから、もし、「インフルエンザ並み」と主張するのであれば、「5類」に移行した後も、年間の感染死者数も、「インフルエンザ並み」(約1万人と推計)に抑えるような体制をつくるのが筋ではないだろうか。

 それに、インフルエンザは、ワクチンだけではなく、かなり有効な経口の治療薬が、一般に広く普及しているのだから、新型コロナウイルスも、そうなってこそ、やっと「インフルエンザ並み」と言えるのだと思う。

 そうした議論すら、すでにされなくなっている印象がある。

見切り発車

 医療提供体制は、幅広い医療機関で受診できるよう、現在よりも2万以上多い、最大でおよそ6万4000の医療機関で受け入れる体制を目指すとしています。

 このためには、これまでコロナ患者を診療していない医療機関の協力も必要なことから、政府は、感染対策に必要な設備の導入などを支援するとともに、医療機関の間で入院患者の受け入れを調整した場合に支払う診療報酬を新設するなどとしています。

 政府は、こうした支援制度について、来週から都道府県などを対象にした説明会を開くなどして丁寧に説明し、理解を求めたいとしています。

 この報道が2023年3月上旬のことなのだが、その後、どれだけ医療体制が拡充したかの続報は知らないままだ。それは、私が情報弱者というだけなのだろうか。

 さらに振り返れば、このコロナ禍の3年が過ぎても、ずっと医療崩壊といった言葉は聞いていたのだけど、その重大な出来事への政策レベルでの具体的な対応も、今のところ聞いた記憶がない。

 だから、現状での「5類移行」は、どこか見切り発車のようにも感じてしまうが、それでも、そうした方針を進めようとしているのは、「コロナ感染死者数のうち、高齢者が占める割合が圧倒的に高いから」ではないか、と以前、考えたことがある。

 ただ、もし、「コロナ感染死者数のうち、高齢者が占める割合が圧倒的に高いから、対策が急がれない」のが本当のことで、それに対して、現時点では、社会的に合意ができているとしても、これからも、感染死者数を減らすことと、経済や社会を回すことを両立させる努力や工夫を、やめてはいけない理由があることに、改めて気がついた。

ペスト

 それは、もし、コロナ禍が本当に終息したとしても、また、いつかは、次のパンデミックが起こる可能性がとても高いし、次の感染症が、新型コロナウイルスと同じような特徴を持つとは限らないからだ。

 たとえば、14世紀から、15世紀に流行したペストは、いってみれば、新型コロナウイルスとは逆の特徴を持っていたようだ。

 一三四八年、ジェノヴァに黒死病(ペスト)が上陸し、その後三年間でヨーロッパの全人口の三分の一以上がこの病いで死亡した。この前例のない人口の大破壊は、経済、社会、政治、芸術、文学、精神の各方面に重大な影響をもたらした。

老人がペストをまぬがれたと断定する根拠には、人口統計にあらわれた確かな事実がある。当時の人々を驚かせたこの事実を、歴史家たちは最近になるまで見落としていた。つまり、一四―一五世紀に流行した殺人的な疫病、とりわけペストは、とくに子どもや青年を襲い、その結果一時的に老人が増加し、年代層の構成に不均等が生じたのである。当時の人々は、一三五〇年頃から老人の割合が増えていることに気づいていた。

今日の人口統計学者たちも、こうした観察記録の信憑性を認めている。J・C・ラッセルは、結核による死亡者はとくに一五―三五歳の年齢層に集中し、ペストの第一波の流行から四年後に訪れた第2波では、とくに若者が死亡したと指摘している。「ペストの第一波の後、第二波では子どもたちがとくに苦しめられた。以前の流行で、皆無といっていいほど子どもは感染しなかったからである(中略)。そのため、第二波の流行は子どものペストと呼ばれた。犠牲者の大半は先の流行後に成長した子どもたちだった」

「疫病の流行で死の選別が行われた結果、都市は老人の重みでゆがんでしまった」と、中世末期の都市を研究したジャック・ロシオは記している。「疫病の時代は、他のどの時代よりも、人々が若者の弱さを認識した時代である。黒死病はおそろしく残忍で、長く生きてきた者を残す一方、若者の命を奪った」とも記している。 

 やや長く引用したのだけど、ごく短く言えば、ペストの感染で亡くなったのは、圧倒的に若者が多く、高齢者ほど生き残ったという「歴史的な事実」を、この1996年出版の本を読んで、恥ずかしながら、初めて知った。

 ということは、今回、新型ころウイルスを「5類移行」したからといって、コロナ禍が収束するわけでもないのだから、感染予防を緩和して、社会活動を促進したとしても、引き続き、というよりは、そうした状況の中でも、より一層、感染死者数を減らしていく努力や工夫を継続しなければ、次に、もしペストのように若者が圧倒的に感染して亡くなるような感染病が、パンデミックになったときに、今度は、若い世代を切り捨てるようなことになりかねない。

 だから、そんな次の感染症に備える意味でも、これからでも、社会活動を活発にしながらも、感染死者数を減らす対策を取っていくべきだと思う。

 だが、嫌な想像をすれば、少し未来も、現在の政権と同じような状態で、高齢者の政治家が主導権を握っていたら、同じように、積極的な感染予防策を取らないという方法を、選択するだけなのだろうか。

アフターコロナ

 コロナ禍が長くなるほど、もとに戻りたい、といった欲求が強くなってくるのは仕方がないのだけど、こうしたコロナ対策が、大きく変更される際に、もう一度、本当にこのまま「元に戻って」いいのかどうかを考えてもいい。

 コロナ以前の社会は、そんなに素晴らしかっただろうか。

あくまで客観的に、こう付け加えてもいい。COVID-19とともに起きているようなことは、今後もますます頻繁に発生するだろう。なぜなら新型ウイルスの流行はひとつの症状にすぎず、本当の感染は地球全体の生態系のレベルで起きているからだ。

 だから、また、同じようなことは起こる可能性が高い。

コロナウイルス の「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。

すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか。

 今回、「5類移行」後も、感染拡大を防ぎ、感染死亡者数を減らそうとする努力や工夫を継続することは、おそらくは「アフターコロナ」の社会のあり方にも、影響を与えるはずだ。

 逆に、まるで高齢者や持病を持つ人を、切り捨てるような対応をしてしまったとすれば、「アフターコロナ」は、以前の新自由主義的な社会が、単に加速した状況になってしまうだけかもしれない。

 だから、今度のコロナ対策の変更は、「アフターコロナ」のこととも、大きく関係する選択になりそうだ。

自己負担

島田眞路学長は、2015年から8年間 山梨大学の学長を務め、任期満了により3月末で退任することから、20日に記念講演が開かれました。

新型コロナウイルスが2023年5月から感染法上の位置づけが、2類相当から季節性インフルエンザと同じ5類に移行することについて「政府が支出を削減したいだけ」と対応を批判しました。

 もし、この批判が正しく、今回の移行が、「支出を削減したいだけ」が目標になっているのであれば、それは、「アフターコロナ」が、より良い時代になるような選択とは思えない。

コロナの治療費や検査費用の自己負担について、方針決定当初の1月末時点では、患者に急激な負担増が生じないよう期限を区切って公費負担を継続していく方針を示していたはずだが、3月10日に示された医療提供体制の見直しでは、外来においては原則通常の保険診療に切り替える(コロナ治療薬の費用等を除く)とされたのだ。

つまり「コロナ5類化」とは、医療機関の負担軽減やら発熱者の受け皿を増やすためやらと、いろいろなメリットが喧伝されたが、けっきょくはコロナにかかる医療費を減らすこと、すなわち「公費の削減」が主たる目的であることが、これでハッキリしたということだ。

 医師である著者は、現在での自己負担について、具体的な金額を並べたあと、こう続けている。

「5類化」後は、これにさらに検査にかかる費用の自己負担分が上乗せされる(※1)となれば、「無理……払えない」という声、軽症者が受診しなくなることで感染が広がるとの懸念は容易に理解されるだろう。いや、軽症者でなくとも、この窓口負担を支払えない人は、検査を控え受診を我慢し、自宅で重症化するまで、あるいは死亡するまで発見されないという事態さえ引き起こしかねないともいえよう。

 それが「With コロナ」の社会であっても、感染しても軽症で済むような人であれば、もしかしたら、その状況を、望むのかもしれない。ただ、感染症は、これで終わりになるとは考えにくい。

 コロナでは軽症で済むような若く健康な人でも、次の感染症では、重症化しやすい可能性を持つことも、十分に考えられるのだから、今回、もしも「自宅で重症化するまで、あるいは死亡するまで発見されない」ような事態を許容すれば、感染症に対して、命を救うような対応力が、著しく落ちる社会になる可能性すらある。

医療機関の窓口で実費を支払うとなった場合に、もし手元に余裕がなかったら受診を躊躇せざるを得ない場合もあるのではないか。病気やケガという“危機的事態”に、財布の中身と相談せねばならない現状は、アタリマエのこととして受け入れねばならないことなのだろうか。

あまりにも制度として定着しすぎているがゆえに、知っている人のほうが今は少ないかもしれないが、国民皆保険制度が達成された1961年当時は、被用者本人の自己負担は0割であった。その後、行政改革、構造改革という「改革」の美名の下に、そして社会保障費の増加を口実として、84年には1割、97年に2割、03年から3割と段階的に増やされてきたのだ。

 この自己負担について、ゼロにできる可能性も、医師である著者は指摘している。

たしかに医療資源すなわち財源は無限ではない。しかし窓口負担分にかかるカネはそんなに莫大なものであろうか。厚生労働省の2020年「国民医療費の概況」によれば、国民医療費約43兆円のうち患者等負担分は約5兆円だ。

これは岸田政権が目指す防衛費倍増計画のうち、2023年度予算の防衛費とほぼ同規模、つまりその気になれば工面できる金額なのだ。もちろんそのすべてを国に求める必要はない。紙幅も限られているので詳細を知りたい方は以下のサイト(※2)をご覧いただきたいが、その財源は国と事業主とでのワリカンでも解決し得るのだ。

※2:医療費の窓口負担「ゼロの会」https://www.iiiryou.com/zero/

つまり「一億総窓口負担ゼロ」は、まったくの夢物語ではないということだ。事実、窓口負担ゼロを実現させようという声は、患者団体だけでなく、今や著名人からも上げられてきている。国民にとっての優先順位が何かを理解し、“その気になれる政権”であれば、今すぐにでも実行できるレベルの政策といえるだろう。

 こうしたことも検討するのが、「アフターコロナ」で、どのような社会にしていきたいのかに、強く関係するのは間違いない。

今回の「5類化」とそれにともなって政府から示された「医療費の窓口自己負担増の再開政策」を奇貨として、これまで多くの人が知らず知らずのうちに実現できるはずないと思いこまされてきた「窓口負担ゼロ政策」について、真剣かつ具体的に国民的議論を開始してはいかがだろうか。

 「窓口自己負担増」社会と、「窓口負担ゼロ」社会を比べれば、どちらが感染症に強いかは、明らかだと思う。

後遺症

 経済の専門家からは、こんな指摘もされている。

人類のパンデミックとの闘いの長い歴史は、感染の収束が闘いの終わりではなく、その後にこそ、後遺症との長い闘いが待っていることを教えてくれています。そのことをしっかり頭に入れておくべきだと、私は考えています。

 そうした社会の状況に対して、どんな選択と、決断をし続けるのか。

 それが「アフターコロナ」がどのような社会になるかに大きく関係してくるのは間違いない。そして、それは、いつも「本当にコロナ以前の世界に戻っていいのか」といった課題と共に考えられるべきだろう。

凍りついた賃金という最後のハードルを越えるのは到底不可能と諦めてしまうのか。それとも、その最後のハードルを何とかして乗り越えることで日本のノルムを変え、慢性デフレからの脱却を果たすのか。今後日本の社会がどちらに進むことになるのかは、まだ読み切れません。ですが、何十年に一度という大事な選択が、私たちに突きつけられていることだけは間違いありません。 

 今は、値上げが続いているので、「凍りついた賃金」は、より緊急の問題になっているはずだ。 

日本は賃金をほとんど上昇させない企業の集合体 

 この問題自体をどうするか?が、実は「5類移行」といった変更よりも、より緊急に対応するべきことだとも思えるし、もちろん、「アフターコロナ」をどういう社会にしていくかについて、真っ直ぐにつながっている課題でもあるのは、間違いない。




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おちまこと
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