読書感想 『大きな字で書くこと』 加藤典洋 「よりよく考えるための入門書」
この著者の他の本を読んで、人類が滅亡することが、理屈というよりは体感として必然に感じ、それについて書いたこともあった。
『大きな字で書くこと』が、著者にとって最後の書籍であることは、知っていた。それも、2019年に亡くなっているから、読んでいても、その著者の亡くなったことを、どうしても意識してしまう。その内容も、著者の知っている方々、それもすでに亡くなっている人のことも書かれているから、全体として追悼の気持ちになる。
だけど、読み進めながら、少し立ち止まるように考え、そして再び読むと、当然だけれど、それだけの本ではないことに気がつく。
『大きな字で書くこと』 加藤典洋
私は何年も文芸評論を書いてきた。そうでないばあいも、だいたいは、書いたのは、メンドーなことがら、こみいった問題をめぐるものが多い。そのほうがよいと思って書いてきたのではない。だんだん、鍋の料理が煮詰まってくるように、意味が濃くなってきたのである。
それが、字が小さいことと、関係があった気がする。
簡単に一つのことだけ書く文章とはどういうものだったか。それを私は思い出そうとしている。
私は誰か。何が、その問いの答えなのか。
大きな字で書いてみると、何が書けるか。
読み始めは、読者としての自分が、著者への追悼のような思いに勝手にとらわれていて、それはある意味では、目が曇っている状態に近いから、つい読み誤ってしまっていたのだけど、この本は晩年になった著者の、それでも「新しい挑戦」であることに気がつく。
全体の構成が、一つにまとめることができるテーマも、あえて、いくつかの項目に分けてあることで、読みやすくなっている。さらに、その思考の伝え方も、意識してコンパクトにしているようなので、シンプルで飲み込みやすい。
自らの死をどこまで意識しているかは分からない。だけど、晩年であることは十分に意識しながら、だからこそ、かなり考え抜いた後に、分かりやすい形に、力まずにアウトプットすることに徹しているのだと思う。
「敗戦後論」について
例えば、著者にとっては、もっとも注目を浴びたといっていい「敗戦後論」。
一九九七年の八月に私は『敗戦後論』という本を出して、右の人からも左の人からも総スカンを食い、数年間、さみしい思いをした。
そんなことを思っていたのかもしれない、と想像はつくが、すごく素直に、「大きな字で書くこと」では、著者の気持ちを伝えてくれている。この「敗戦後論」を読んだときに、どこまで理解できたか自信は全くなかったが、これまでにあまり触れたことがない「思考の角度」であって、とても大事なことがここにある、ということだけは分かった気がした。
著者は改めて、「敗戦後論」の意図も含めて、「大きな字で書くこと」で、驚くほど的確に、これ以上ないほどコンパクトに書いてくれているので、こうしたことを理解した上で、「敗戦後論」を読めば、それまでの「常識」にとらわれずに、もっと素直に、深く理解できたのに、とは思った。
私は、もう二昔前、一九九五年に「敗戦後論」という論考を書いて、第二次世界大戦で死んだ自国の死者を侵略戦争の加担者と見て否定したうえ、侵略先の他国の死者に謝罪するという従来の戦後民主主義ふうの考え方は、必ずや国内に不満と反対を生み出すので、フラジャイルである(こわれやすくてもらい)、変えたほうがよい、と述べた。
そして、まず自国の死者を哀悼し、その延長線上で、他国の死者に謝罪するという新しい使者との向き合い方を作り出さないかぎり、私たちの思想基盤も、アジア諸国との関係も安定しないと書いて、左派からも右派からも批判された。
同時に、この文章によって、「敗戦後論」を読んだ記憶とともに、さらに、考えが進んだ気さえした。
戦争に勝った国はやれることが多くなるし、やるべきことも膨大になる。それに対して、戦争に負けた国は、やれることは少なくなるが、考えること、考えるべきことは、勝った国よりも、圧倒的に多いし、それを行うことで、やっと国際的に認められるようになるんだ、と思い、日本はまだ考えることが足りなかったんだ、と思った。
やはり、この人の文章は、頭脳というよりは、体に来る、と思う。
伝えなければ、という使命感
例えば、トークショーのような場所であっても、その人の肉声と、その姿を直接見たことがあると、著作を読むときに、その声が聞こえ、話す姿が見えてくるような気もする。さらに、個人的な印象に過ぎないが、話す姿と書くことが一致しているような人の場合ほど、より敬意につながって、さらに深く理解できるようにも思う。
この「大きな字で書くこと」には、「思考の達人」と言えるような人たちの姿が、同じ時間や空間を共有した人にしか描けない描写もされている。さらには、著者が、直接会ったわけでもない人の文章であっても、通常であれば気がつきにくいような視点を提示してくれている。だから、この本に出てきた人たちの著作を読むときに、理解という理性的なことだけでなく、納得という、どこか肉体に届くようなことへの、手助けになると思った。
橋本治、安岡章太郎、久保卓也、秋野不矩、吉本隆明…。
もちろん、登場する人たちは亡くなった人たちばかりではないのだけど、そうした人たちの生きている姿を伝えることを、使命のように(他の人にはできないから)おこなっている、ということなのかもしれない。
よりよく考えるための「入門書」
他にも、現在進行中のさまざまなこと。「新潮45」の問題、自己責任論のこと、原爆についての意外な見方について、比較的コンパクトに語られていて、結論を掲げるというよりは、読んだ人間が、自分で考えていくために背中を押すような本になっていると思う。だから、著者の「新しい挑戦」は、かなり達成されているのではないだろうか。
「最後の本」でもあるのだけど、これから、著者の作品だけではなく、この本に登場する人たちの考えや、様々な思考に触れるための「入門書」であり「ガイドブック」でもあるので、ある意味では、「始まりの書」でもあると思う。そのためなのか、本の作りもコンパクトで、持ち運びもしやすくなっている。
著者をよく知っている人ももちろんですが、「これから生きていくために、考えることが必要かもしれないけれど、何を読んだらいいか分からない」といった方にも、オススメできる作品だと思います。
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