「経済学者も、民主主義を信じすぎていないだろうか?」(後編)
現代の経済状況に批判的な経済学者も、民主主義に対しては、かなり信頼しているような印象がある。
だけど、それほど民主主義というのは、信じられるものなのだろうか?
それは、もっと賢い人たちが考えてきたことではあるので、そんな疑問を掲げること自体も恥ずかしいが、それでも、微力でも、改めて考えてみたいと思ったのは、現実が、未来も含めて改めて、絶望的な度合いが、さらに深まった気がしたからだった。
理想の民主主義
直接民主主義が機能していたと言われている古代ギリシャでは、『奴隷制に支えられた「市民」』たちが、直接、議論をして決めていったらしいが、それは、いわゆる労働をしていては政治のことを考えられないし、参加もできない、ということでもあり、政治に参加できる能力がある人を「市民」としていたようだけど、その能力は万人に宿っていないという諦観もあったのだろうか。
そうであれば、間接民主主義を採用している現在の方が、投票を通じてだけど、より全員参加の民主主義なのかもしれないが、だけど、現状を少しでも考えると、本当に全員が参加する「人民の、人民による、人民のための政治」は、実は絶対に届かない理想に過ぎないのではないだろうか、と思ってしまう。
日本の現状
すでに少し古い印象になってしまうけれど、百田尚樹現象ともいうべき出来事があった。
それは「ポピュリズム」とも表現されているが、ベストセラーになったということは、多数から支持を得たということであり、もしも、選挙に例えるならば、大量得票で当選ということであり、ただ民主主義の中で戦って勝った、ということになるはずだ。
民主主義という視点から見たら、何もおかしいことはない。
この書籍の中で指摘されている現代日本社会の状況も、排外主義的な傾向が強まった「ポピュリズム」とも言えるのだろうけど、「偏見や差別心などがむき出し」になったとしても、それは個々人の自由意志であれば、それが投票行動に結びついて「ポピュリズム政党」が与党になったとしても、民主主義の中での「正当な」出来事になるはずだ。
さらに言えば、「ポピュリズム」と似ている感触のある「全体主義」でさえ、歴史的には有名な事実として、民主主義の手続きを踏んだ上で登場しているはずで、そして、その「全体主義」でさえ、ただの過去になっていない、という見方さえある。
こうした「凡庸な悪」は、組織に属することそのものの怖さについても触れていると思われるのだけど、その組織という存在について、私が無知だけなのかもしれないが、まだ十分に語られていないし、考え抜かれていないし、何より政治という現場で生かされていないように思えるから、「民主主義」を有効に機能させるのは不可能ではないか、とも思うのだけど、それはただの、素人の考えの至らなさなのだろうか。
インターネット
たとえば、インターネットの普及によって「直接民主主義」が可能になるのかもしれない、といった言葉を、どこかで読んだような気もする。
それは、インターネットが広がっていく時は、大きな希望と共に語られていたから、いろいろなことができるような気がしていたせいもある。
今後、インターネットを利用した「直接民主主義」に近いことは、技術的には可能になるかもしれないけれど、もし、可能になったとしても、「理想の民主主義」が実現するのは、ほぼ不可能ではないかと思えるのは、誰もが発言できるようになったSNSが普及した現状を見ているせいだ。
多数が参加すればするほど、議論が多様になり成熟するというよりは、ひたすら荒れていく印象が強い。
ただ、「全体主義」や「ポピュリズム」と呼ばれる状態を民主主義から生んでしまう歴史を振り返ると、もしかすると人類は「そう簡単に賢くならない」から、まだ民主主義は早かったのではないか、といった疑念さえ生じてしまう。
民主制
こうしたことを考えて、思い出すのは、たとえば学生時代の学級会で、議題にもよるのだけど、いろいろな意見が出たあげく、「あとは個人の自覚に任せて」といった結論にたどり着いて、その上で、何も変わらない無力な現状のことだったりする。
個人が自覚を持てて、適切な行動をするには、いろいろな意味で能力が必要で、それは、全員ができるのは無理かもしれない、という思いは、今になれば誰もが持つようになっている気がする。
だけど、民主主義は直接でも、間接だとしても、市民全員が、適切な判断ができる、という前提が必要だと思うけれど、それはSNSの現状を見ても、不可能だとしか思えない。
では、どうしたらいいのだろうか?
そんな難問に、根本的に答えることもできないとは思うのだけど、まずは、その呼び方を変えた方がいいと思う。
民主主義、という言葉には主義が入っていて、それは結局のところ「信じる」という熱量が込められやすく、逆に言えば、主義が入った言葉だと、冷静な判断を遠ざける可能性もある。
だから、システムとして「民主制」と、呼び方を統一した方がいいのではないかと思う。
システムであれば、修正することにも抵抗感が減るかもしれない。
選挙免許制
評論家・呉智英氏は、かなり以前から「選挙免許制」を主張していた印象がある。
呉智英氏は、「選挙免許制」を、さらに詳細に考えている。
この記事の中でも「暴論」と表現されていたし、本人の責任ではなく教育の機会がなかった環境にいた人に対して、どのような救済措置をするか。実施にあたっては、さらにそういった具体的なことを検討する余地はあるし、それでも組織票は生まれるかもしれないという危惧はあるものの、この「選挙免許制」は、もしかしたら、「人民の、人民による、人民のための政治」に少しでも近づく可能性はあると思う。
少なくとも、政治に対して関心の持ち方が変わっていくだろうし、「ポピュリズム」を防ぐにはどうしたらいいのか、という議論を重ねていく中で、検討されるべき一つの提案ではあると思う。
有料オンライン配信
ある種の「選別」という意味では、エンターテイメントの「お客」として、昔からの表現でいえば「木戸銭を払うかどうか」で、観客を選別する考え方がある。
それこそ、「お金を払って、自分の芸を見てくれる人が、本当のお客さん」という言い方も、どこかで聞いた記憶があるし、確かにそうかもしれない、ということもあった。
自分も視聴したのだけど、オードリーの有料配信は、多い時は8万人を超えることもあったというが、その具体的な内容が、SNSなどを通じて、「外部」へ漏れることがなかったようだ。
東浩紀が創業した「ゲンロン」が始めた配信のプラットフォームは、無料が主流のインターネットの中で、当初から有料とすることで、おそらくは狙い通りに「良質なお客さん」を集客できたのだと考えられる。
前出の呉智英氏の「選挙免許制」では、市民を「選別」することになり、それは場合によっては「差別」にもつながりかねない、といった批判を受ける可能性もあるが、有料という条件で「観客」を選別することで、言い方は乱暴だが、その質をキープできるというのも事実のようだった。
つまり、ある種の選別によって、質を担保できる可能性も考えられるのではないか、とも思う。
経済学者の現在
おそらく、この皮肉めいた指摘は、少なくとも今の日本では、なんでも知っているという意味での「哲学者のようなもの」に、すでに経済学者がなっているように思える。
ラジオ番組で、経済学者が、リスナーからの疑問に、なんでもほぼ即答で答え続けていて、これが、これから先の一般的な光景になるかもしれないと思えた。
経済学者・成田悠輔氏は、軽やかに答え続ける。
経済学を選んだ理由についての質問には、なんでもできるから、という理由を述べ、ラジオについては、斜陽産業ではなく、すでに滅びているのだけど、伝統芸能として残っていくのかもしれない、という判断を示す。
さらには、ただそれだけではなく、音声メディアの可能性にも触れる。動画は、この10年でかなり変わったのに比べると、音声の方は、クラブハウスのように一瞬盛り上がったことはあったから、今後も、そういう爆発があり得るかもしれない、と予言をし、最後には、ラジオは古いメディアだけれども、テレビに比べると、自由があるのでは、とある種のサービスのような言葉も忘れない。
さらに、パーソナリティ山崎怜奈の質問にも答えている。
自分の祖父母の世代が、保険料が2割になって辛い、といったことを語っているのだけど、若者もしんどい。そのことを伝えたい。どうすればいいのでは、といった山崎の悩みについても、少し慎重さを感じさせながらも、成田氏は、これに対しても、即答だった。
伝えなくていいのでは。
こういう社会状況に対して、変えたり、逃げたりが1つの方法としてある。
もう一つは、不幸と思わないこと。
日本の相対的な地位が、昔と比べて、落ちてることもある。だけど、その一方で、例えば、30年前よりコンビニスイーツレベル上がっている。だから、今の方が身体的には幸せではないか。中世の女王より快適ではないかと思う。社会を変えることを諦めるのではあれば、色々言わずに、目の前のことをしていけば、それでいいのではないか。
成田氏は、そんな話をした。
その後に、山崎怜奈は、少子化についても聞いていく。
この課題にも、軽やかに答えている。子育てしにくいのは事実。子供のことは、だけど、みんなが欲しいと思っていないのでは。今の権力者が、ヨボヨボになって、もっと切羽詰まれば変わるかもしれない。
基本的には現状維持の言葉であっても、なんとなく悲観的になりすぎない巧みな返答に聞こえた。だから、成田氏が、あちこちのメディアで引っ張りだこになっているのも分かるような気がした。
民主主義
この経済学者が「民主主義」についての書籍も出している。
やはり、現在の「民主主義」に対して、「個々人がよく考える」という意識の問題だけではなく、システムそのものの修正を考えなくてはいけないところまで来ているのではないか。
こうした議論そのものは、専門家の間では、おそらく長くされてきたのだと思うし、私が無知なだけの部分も多いと思うのだけれど、現在の「民主主義」が、本当の意味で「人民の、人民による、人民のための政治」として機能するようになった時に、もしかしたら初めて、現在の経済状況へ疑問を持つタイプの経済学者が頼れるような本当の「民主主義」になるのかもしれない。
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