言葉を考える⑯「向き合う」だけでは足りないと思う。
ここ数年でよく聞くようになった言葉に「寄り添う」という表現がある。
その言葉自体にというよりは、その使い方に抵抗感があることを、この記事に書いたけれど、その内容に関しては、今も同様なことを思っているのと同時に、「寄り添う」だけでは足りないのではないか、と思うようになった。
「寄り添う」ことは難しい。本当の意味で相手の力になれるように「寄り添う」ことは、もっと難しい。だけど、「寄り添う」はスタート地点で、そこからどうするかが大事なこともある。
だから、「寄り添う」を大きな声でいう事自体が矛盾しているとは思うものの、「寄り添う」は主観的な表現でもあるから、後から「何もしていないじゃないか」と責められても「寄り添いました」とは言えるから、それで、政治的で、社会的な場面で多用されるようになったのかもしれない。
ただ、そのことで、その言葉自体の意味合いまで、微妙にくもってくるような気がする。
向き合う
辞書で調べると、「向き合う」は、こうした意味が挙げられている。
ただ、最近の「向き合う」というのは、こうした物理的な状態というよりは、もっと精神的な、というよりは、気持ちの姿勢について使われる場合が多くなっている気がする。
今は、「向き合う」と使うときは、この「真摯に向き合う」という意味合いで使われることが多くなっているようだ。
だから、このように直視するのが困難だけど必要なことに対して使われるようになっているように思う。
ただ、ここまででも改めて気になるのは、もともと、「向き合う」の意味に、「互いに」が入っているのだから、一方的に「向き合う」わけではないことだ。
こちらも「向いて」、相手も「向いて」、実は「向き合う」が初めて成立することのはずだから、そのように、相手も「向き合って」くれる状況をつくることが大事なのではないか、と改めて思う。
「向き合う」だけでは足りない
もちろん、何かしらの困難なことに対して、正面から「真摯に向き合う」だけでも大変なことだとは思うし、それまで、そういったことに対して目を逸らしてきた場合には、そこに至るまででも進歩のはずだ。
ただ、そこにとどまるだけでは、足りないこともあると思う。
「向き合って」から、何をすればいいかを、相手と話し合いながら考え、必要なことはおこない、必要でなければ見守る。そうした行動に結び付かなければ、やはり足りないことはありそうだ。
だから、「寄り添う」と同じで、主観的に「向き合った」と言われてしまえば、本来ならば、さらにさまざまな事をやるべき立場にいる人たちも、何もしないまま免責されてしまう可能性もある。
だから、「向き合います」という言葉を発した人は、その人物の責任が重ければ重いほど、その後「向き合ってから、何をしたか」も、やはり問われるべきだとは思う。
それは、もちろん、自分自身にも当てはめなくてはいけないはずだ。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。