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「わからないを、考える展覧会」----- 「あ、共感とかじゃなくて。」。東京都現代美術館。(~2023.11.5)。

 コロナ禍で、美術館が閉められたときは、微妙な怒りを感じた。

 それは自分でも意外だったのだけど、30歳を超えて、アート、特に現在の課題と取り組みながら作品を制作しているような現代アートを見たり聞いたりすることによって、自分が20年間以上、特に気持ちが辛いときに支えられてきたからだったと思う。

 自分でも、コロナ感染を恐れて、アートを見にいくことがなくなっていた癖に、「密」を避けるために、といった理由で、美術館が閉鎖されたことに、何もできなくても納得ができなかった。

 それは、いつも、自分が見たいと思って、実際に行って、全部がわかるわけでもないのだけど、いろいろなことを感じ、アーティストの思いや狙いを想像し、見た後でも、いろいろと考えられるような「現代アート」と言われる分野の展覧会は、とても空いていたからだ。

 展示室の中に、私と妻しか観客はいなくて、あとは、パイプ椅子に座っていて、そこの見守りをしているスタッフしかいないときも少なくなかった。

 だから、あの空間は、「密」とはほど遠いはずだし、こういう閉塞感があるときほど、アートが必要になることもあるはずなのに、と思っていたから、とにかく閉鎖、という暴力的で、粗い決定に微妙に怒っていたのだろうと、思う。


現代美術館

 失礼かもしれないけれど、東京現代美術館は魅力的な展覧会が多いのに、それほど多く人が来る印象がなかった。

「MOTアニュアル」は1999年に始まり、若手作家の作品を中心に現代美術の一側面をとらえ、問いかけや議論のはじまりを引き出すグループ展のシリーズです。

 この「MOTアニュアル」は、コロナ禍の時以外は、個人的には1999年からほぼ全部の展覧会を見ているほど、好きな企画で、毎回、何かしらを考えさせてくれるけれど、こうした企画には、人が押し寄せる感じはなかった。土日を避けて平日に訪れるから、いつも空いている印象になっているのかもしれない。

 一回、リニューアルのために3年間ほど閉館していたときは、もしかしたら、違う形の美術館になるのではないか、といった憶測もしてしまい、それは、雑誌などがリニューアルして、以前とは全く違う印象になってしまうように、文化に関わることでは少なくない出来事で、そうなったら嫌だったのだけど、再開後しばらく経ってからいけたときは、それほど変わっていないようで良かったと思ったが、どこを新しくしたのかは、正直、よくわからなかった。

 それでも、変わらずにあることは、なんだかありがたかった。

昼食

 この東京都現代美術館は、企画によっては、人が多い時もあるけれど、自分が行きたいと思った企画には、平日だったらかなり空いていることも少なくなく、加えて、移動の時も、時刻によっては、それほどの混雑した公共交通機関を使わなくても済みそうなので、「5類移行」後も、重症化リスクなども関係あるし、感染しないようにしている生活は続いているので、そういう意味でもありがたかった。

 ただ、そこに行くまでに時間がかかるのが、ちょっと気持ちが乗らない理由の一つだったが、それでも、なんとか行くことにしたのは、妻が「ホックニー展」に興味を持ってくれたからで、それでセット券などの都合も含めて、もしも、体力的に余裕があったら、「あ、共感とかじゃなくて」も、一緒に見たいという話をした。

 当日、ホックニー展は人も多かったが、考えることも少なくなく、見にきて良かった、という気持ちにもなっていた。その後、午後2時過ぎだけど、少し遅い昼食をとってから、私が見たかった「あ、共感とかじゃなくて」も、一緒に見られるかも、という話をしていた。

 最初は、美術館の外のハンバーガー屋に行こうとも思っていたのだけど、一度は行ったし、それよりも2階のスペースには、これまでにもいろいろな店が入っていて、今の飲食店にはまだ行ったことがなかった。

 現在は、「二階のサンドイッチ」という店になっていた。

 魅力的な名前だったし、メニューにあるパフェやソフトクリームも食べたいと思ったけれど、2階までの階段を登ったら、平日の午後2時過ぎなのに、人がいっぱいだった。

 まず席をとってから、サンドイッチをトレーに載せて、列に並ぶ。

 この日は、展覧会のチケットを買うのに15分並び、ホックニー展でグッズを購入するのに10分以上は待ち、そして、ここでも結局はまた並ぶことに、ちょっとうんざりしていたのは、美術館で待つことが個人的にはほとんどなかったせいで、微妙に焦りも出たけれど、それでもサンドイッチも、コーヒーもおいしくて、こうして美術館で食事もできるのは、やっぱりうれしい時間だった。

「あ、共感とかじゃなくて。」

 展示室へ入っていく。

 妻も、食事をとって元気になったので、一緒に見に行けることになった。
 さっきまでと比べると、観客は少なく、落ち着いた空気になっている。

「見知らぬ誰かを想像する展覧会」

 SNSの「いいね!」や、おしゃべりの中での「わかる~~~」など、日常のコミュニケーションには「共感」があふれています。共感とは、自分以外の誰かの気持ちや経験などを理解する力のことです。相手の立場に立って考える優しさや思いやりは、この力から生まれるとも言われます。でも、簡単に共感されるとイライラしたり、共感を無理強いされると嫌な気持ちになることもあります。そんな時には「あ、共感とかじゃなくて。」とあえて共感を避けるのも、一つの方法ではないでしょうか。

 この展覧会では、有川滋男山本麻紀子渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)武田力中島伽耶子の5人のアーティストの作品を紹介します。彼らは作品を通して、知らない人、目の前にいない人について考え、理解しようとしています。安易な共感に疑問を投げかけるものもあれば、時間をかけて深い共感にたどりつくものもあります。それを見る私たちも、「この人は何をしているんだろう?」「あの人は何を考えているんだろう?」と不思議に思うでしょう。謎解きのように答えが用意されているわけではありませんが、答えのない問いを考え続ける面白さがあります。共感しないことは相手を嫌うことではなく、新しい視点を手に入れて、そこから対話をするチャンスなのです。

家族や友人との人間関係や、自分のアイデンティティを確立する過程に悩むことも多い10代はもちろん、大人たちにも、すぐに結論を出さずに考え続ける面白さを体験してほしいと思います。

 これが、ホームページにも、チラシにも載っているステートメントといっていいものだと思うし、こうした文章を嫌う人もいそうだけど、でも、こういうことを考えて、展覧会を開くこと自体に意味があると思っていた。そして、個人的にも知っている名前は一人だけだった。

 もちろんこうした展覧会を開催するのも、アートの仕事であって、観客からは見えない様々なビジネス的な側面はあるとは思うけれど、それでも、切実さや誠実さが、そこにあるような気がしたからだ。

 入り口の壁にも、こうしたステートメントのような文章が並んでいた。

 そして、展示室に入ると、ビジネスの展示会などで見かけるようなブースが並んでいて、それぞれにモニターがあって、そこで何かをしている映像が流れ続けていた。

有川滋男

 部屋に入ると、それぞれの会社が業務内容を説明するブースが並んでいます。モニターの動画を見て考えてみましょう。この人は何をしているのか。何のための仕事なのか。この後何が起こるのか。

 映像作家。人間は見ているものに、意味を読み取ろうとする。そこであえて意味を分かりにくくして、「見る」ことの不思議さを問いかける。アムステルダム在住

(「東京都現代美術館」サイトより)

 それぞれのブースに、確かに何かの仕事をしていて、その様子を広く伝えようとする映像が流れている、ように見えた。

 いかにも測定会社のようなユニフォームを着て、何かを測っているのだけど、それが何の役に立っているのかわからない。だけど、緻密に作業をしようとしているのだけは伝わってくるような人たち。

 他のブースの映像の中では、風力発電機が並ぶような場所に行って、黄色い大きいメガホンのようなものを持ち、何かの発声をすると、その時だけ、実際にブースに置いてあるそのメガホンから音が流れたりするブース。

 この会場の設置をしている様子を撮影して流れている映像もある。

 何かが起こりそうで、何かが面白そうで、何かが分かりそうで、なんとなく、そのまま何ヶ所かのブースを見て回った。

 こちらの理解が届いていないだけかもしれないが、もう少し、それぞれの仕事の具体的なリアルさが伝わってくるような場面があれば、もっと強く印象に残ったような気がした。

山本麻紀子

巨人の落とし物である大きな歯を作ったり、その歯を抱えて眠って見た夢の絵を描いたりしています。植物や土に触れながら、生きのびること、待つことについて考え、巨人の世界を知ろうとしています。

―どこかの場所について詳しく調査し、そこに住む人たちとのコミュニケーションを元に作品を作るアーティスト。落とし物を拾うのが得意。滋賀県在住

(「東京都現代美術館」サイトより)

 靴を脱いで、部屋のような、もしくは、ゆるやかな檻のような場所に、大きい歯がごろっと転がっているのは、わかるし、そこに目がいく。

 それは、巨人の落とし物、という「設定」で、だけど、その土地の植物を使って色を染めたり、その周辺にあったであろう、様々なものが並べられている。さらには、その大きい歯を川で流した映像も映っているが、それはバカバカしいという思いもありながら、眼が惹きつけられているし、もし、近所の川にこの「巨人の歯」が流れていたら、と想像すると、やっぱり面白いと思った。

 そして、自分が想像する世界を再現し、それを人と「共有」しようとする姿勢はすごいと思いながらも、それが押し付けがましくないから、ちょっと気持ちがいいのかもしれない。

 そこにある様々なものは作品として並べてあって、魅力的に見えた。

武田力

移動図書館のような車に、むかし誰かが使っていた小学校の教科書が並んでいます。自分と同じ教科書はありますか?さまざまな時代や地域の教科書と比べたり、らくがきから元の持ち主を想像したりしながら、社会や教育について思いをめぐらせます。

―演出家、民俗芸能アーカイバー。参加者との相互作用で生まれる作品や、盆おどりのように誰かの暮らしで生まれた動きを新しい世界に渡す活動など。東京都/熊本県在住

(「東京都現代美術館」サイトより)

 3階か4階までの吹き抜けがあって、視野が広くなっている場所に、ワゴンカーのような乗り物が停めてあって、その前にイスがあって「教科書」がある。それは古いとは言っても、10年や20年前であって、自分にとっては新しい教科書で新鮮だった。

 ただ、この教科書は古びていて誰かが使ったものらしく、物質としては古いものだった。そして、21世紀になってから政治の介入とも言われた道徳の教科書を初めて読んだけれど、すごく窮屈な感じは確かにした。そして、何冊か目を通しただけだけど、教科書は、時代が変わっても、そんなに面白くないのは、少しわかった気がした。

中島伽耶子

空間を大きく斜めに横切る黄色い壁は、暗い部屋と明るい部屋を隔てています。壁の向こう側の様子は、音や光でうかがい知るしかありません。相手を知ることはできますか?対話のテーブルにつくことはできますか?

―壁や境界線をモチーフにして、分かりあえなさについて考える。家全体を使うなど、見る人が身をおく空間全体を作品にする。秋田県在住

(「東京都現代美術館」サイトより)

 大きな黄色い壁がある。

 その壁の向こう側には、暗い部屋がある。

 遮っているのは、わかるから、その向こう側に回ると、この展覧会の入り口付近だった。そして、明るかった。

 小さな穴が開いているような壁で、明るい側には、家の玄関にあるようなチャイムのようなボタンがあった。だから、妻にお願いして、暗い側にいてもらって、そのボタンを押して、その後に合流して、どうだった?と聞いたら、どうやら、押していると、その小さい穴が開いて、目と目が合うらしい、ということがわかった。

 そして、その作品は、こうしてコミュニケーションの難しさ、といったことだけではなくて、そこから少し離れた場所にある鉄製の扉の中に(なんとなく気後れして、スタッフの方にあけてもらった)ミラーボールがあって、それは、輝くものだけど、その扉の中にあったら外からは見えないし、そうした光を乱反射する機能も使われないままになる。それは、何かの比喩らしいが、それについては、ややピンと来なかった。

渡辺篤 

新型コロナがはやって、みんなが外出や人に会うのを控えていた時、同じ月を見て、写真を撮るというプロジェクトを始めました。寂しさを感じている人、見えないつらさを抱えている人がいることを、いつも思い出せるように。

―元ひきこもりで、当事者をケアする活動家でもある。アーティストとして、孤立している人の存在を多くの人に想像してもらおうとしている。神奈川県在住

(「東京都現代美術館」サイトより)

「アイムヒア プロジェクト」と名付けられたアートプロジェクトを行なっているアーティストということは知っていた。そして、その個展についても見られなかったから、今回、グループ展で見られるのは、ちょっとうれしかった。

 以前、自分自身がひきこもりだった経験を生かし、というのは単純すぎるのかもしれないけれど、作家本人が、ギャラリーの中のコンクリートの小屋のような箱に何日も閉じこもって、自分のタイミングで内側から壊して外へ出る、という展覧会が2014年にあった。

 その時、その小屋から出てきた後のアーティスト自身が、そのギャラリーにいて、少し話を聞いて、そういう場所にこもる恐怖や、引きこもりの経験についても話をしてくれた。

 そういう意味では、とても強く印象に残っていて、そこから、同じように引きこもりの経験を持つ人や、自分の傷ついた経験についてを、募集することによって作品化したり、そして、この「アイムヒア プロジェクト」は、コロナ禍で孤立しがちな時に、あなたがいる場所から撮影した月の写真を送ってください、というメッセージによって、集まった写真が、この暗くなった展示室に飾られている。

 大きい月が、移り変わっていく姿が大きく映し出されてもいる。

 床には、大きめのクッションが置いてあって、そこに少し横にもなれるし、そして、これも募集したそれぞれの「ひきこもっている部屋の写真」が、ガラスケースのカーテンの向こうにある。

 この展示室は、このグループ展の中でも、少し独立したような気配さえあった。

「わからない、を考える」

 あ、わかった、といったことも少なく、どちらかといえば、そこからまた考えたりする作品が多かった。

 そして、また元に戻ってきた入り口付近の複数のランプも作品で、それは、この会場ではなく、別のどこかとつながっていて、そこでは、ここにはいない「誰か」の意志によって、ついたり消えたりしているらしい。という文章を読んだら、その「誰か」のことを、やっぱり想像してしまって、意識の広がりのようなものは、感じた。

 来て良かった。

 そして、今回、これまで知らなかった興味深い作品を制作する、アーティストを知ることもできて、よかった。





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おちまこと
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