『海をあげる』 上間陽子 「正確で切実で鮮やかな日常」
著者の本業(こういう表現も少し違うかもしれないが)は、大学の教員であり、研究者である。
同じ著者の別の著作(「裸足で逃げる」)を読んで、こんなに「見えている」人が、大学の先生でもあることに、今、もしも自分がノンフィクションの職業的なライターだったしたら、そんな比較は意味がないとしても、とても敵わないのではないかと感じたりもした。
そして、この本は、著者の「目の前の日々」のことを書いたものだけど、著者自身の気持ちの変化も正確に鮮やかに描かれていることで、読者にも、切実に伝わってくるように思えた。
「海をあげる」 上間陽子
沖縄で生まれ、今は普天間基地のそばに住み、子どもを育て、仕事をして、生活をしている。その時間の中で、現在も若年出産をした女性の調査を続けている。
これが公式のプロフィールでもあるのだけど、「裸足で逃げる」を読んで、この著者の調査と支援の関わり方が、とにかく聞いて、そばにいる、という、実は最も難しいことを続けているのを知った。
その著者が、日々のことを伝えている。
例えば、冒頭は、書き下ろしで、著者自身のとんでもなく辛かったはずの経験のことを書いている。これだけ気持ちが揺さぶられ、引き裂かれ、叩き落とされるようなことがあったはずなのに、それを、とても正確に描くことによって、気が付いたら、読者も体験しているような感覚になり、逃げ場のない思いにもなってくる。
だけど、それは、これまで研究者として、より厳密に主観を排して、という作業の反動のように自分のことを書きたくなった、ということではなく、他の人の、とても深いところまで伝えるのであれば、それが研究や支援のためだから、ということだけで正当化されるわけではなく、自分自身の気持ちのことも、同じような距離感で描く機会を作らなければ、フェアではないのではないか。そんな著者の信念のようなものも伝わってきたような気がした。
受け取る力
それは、だけど、書くまでにも、辛い時間があったことを容易に想像させるのは、著者が、目の前の人の気持ちに対して想像以上に敏感で、だから、通常であれば本人でさえ気がつきにくい感情さえ、受け取る力があると思えるからだ。
例えば、調査であっても、人の声を、話を聞くことを、こんなふうに表現できる人は、それほど多くない。
そうやって聞き取ったほとんどは、しばらくのあいだは書くことができないことだ。語られることのなかった記憶、動くことのない時間、言葉以前のうめき声や沈黙のなかで産まれた言葉は、受けとめる側にも時間がいる。
逡巡と沈黙の時間をふたりでたどり、それから話はぽつんと終わる。そして最後は静かになる。
そして、人の話を、気持ちを、これだけ自分の中へ、入れることができる人も、ほとんどいない、と思う。
未成年のときに風俗業界で働きはじめた女の子たちへのインタビューの帰り道では、ときどき泣いた。三年前にはじめた、一〇代でママになった女の子たちへのインタビューの帰り道では、ときどき吐く。彼女たちがまだ十代の若い母親であることに、彼女たちに苦悩が不均等に分配されていることに、私はずっと怒っている。
気持ちを聴くこと
2020年に緊急事態宣言が、それこそ突然発出され、学校などが強制的に休みになったことは、自分があまり関係ないとはいえ、それで子どもの預け先がなくなり、仕事に支障が出て、とても困っている知人は確かにいて、ただ、時間が経つと、その時のことを忘れそうになっていた。
その時、学校の教師が、どんなことを思っていたのか、それは、著者が聞いた教え子の言葉によって、こんなに重い意味があったことを改めて知った。
教師になって、彼女はますます静かになった。声を聴き取るこのひとは、子どもや親のかたわらで、いっそう聴き取るひとになったということなのだろう。
家にやってきた彼女は、涙をぽろぽろ流しながら話している。
「突然、学校の休校が発表されて、教室に戻って子どもたちに報告したら、子どもたちもみんな泣いてて、私も泣いて。三月になったらこれまでのことを話して、これからのことを話して、そうやって送り出すつもりだったんです。1年間、みんなといろいろなことを学んで、授業もすごく楽しかった。こんなこともあったね、あんなこともあったね、だからこれからももっと楽しみだねって、私は話してあげたかったんです」
「どんなに子どもとの時間をつくりあげても、よくわからない上のひとが、私と子どもの時間にわりこんでくる。席を立っている子がいるって指導が入ることがあったけれど、その子は立ちながら私や友だちの話を聞いている。それを知っているから、みんなにこにこ笑うんです。そこへ何も知らない人が入ってくる。今回の休校措置もそうなんです。私と子どもがつくりあげているものに、こうやってだれかが、私たちになにひとつ相談なく入り込んでくる」
泣いている彼女にかける言葉はひとつもなく、私たちがいま奪われているのはなんだろうと考える。子どもの日々を知らず、家族の生活を知らず、教師の仕事を知らない誰かの決定によって、ひととひとが重ねる時間が奪われる。四月からの一年間、関係を編み続けた子どもと教師がお互いのことを慈しみあう、そういう三月が奪われる。いままでの苦労のすべてが果報に変わるこの時期に、子どものいない学校に教師は通う。
事実を伝えること
大げさな表現はなく、どちらかといえば、穏やかな言葉なのに、時々、読者が戸惑うほど、こちらの気持ちにまで食い込んでくるような事実を、静かに伝える。
ずっと前に、東京の友だちが沖縄に仕事で来ていて、仕事が終わったあとで喜屋武岬に連れて行った。そこは、追い詰められた住民が、次々と海に飛び込んだ場所だ。
見渡すばかりの青い海に歓声をあげた友だちは、「わかんないなぁ。この青さだったら飛び降りるんじゃなくて、泳ぐでしょう」と言って、私の隣で手足をバタバタさせた。
「海が真っ黒だったらしいよ。あたり一面、アメリカ軍の戦艦が海を覆って、みんな砲口をこちらにむけて」
友だちは隣でしんと黙り込んだ。車に戻ってから、「あの海が真っ黒だと、もうどこにも逃げることはできないって思っちゃうよね」と友だちは言って、「わからないことばかりだ」とつぶやいた。
地形が変わるほどの爆弾が撃ち込まれるのが戦争だということを、子どもたちが次々と亡くなるのが戦争だということを、子どもと自分はいつまでも一緒だと告げて亡くなった母親がいるのが戦争だということを、飢えと恐怖で生理が止まるのが戦争だということを、そして、あのおばあちゃんはそれらのぜんぶを体験したあと、もう一度、あそこで土をたがやして生きてきたのだということを、どのように娘に伝えたらいいのか私はまだわからない。
影響を受けること
気軽な娯楽からは、遠い作品かもしれません。
自分とは関係なく、違う世界に行き、その間は楽しんで、読み終わったら、元の日常に戻ってくるような文章でもありません。
読むことで、おそらくは、程度の差はあるにしても、どうしても影響を受けるような本だと思います。完全に他人事として、距離を取るのも難しいように感じます。何かを手渡されるような内容でもあります。
そんなふうに表現すると、どこか怖いとは思うのですが、これから先、世の中の見え方や感じ方に対しての解像度を上げるためには、必要な影響だと考えています。大げさかもしれませんが、これからを生きていくために必要な作品なようにも思います。
休みの時など、少し余裕があるとき、いつもと違う本を読みたい、といったときに、おすすめできる作品だと思います。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。