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岡野大嗣・木下龍也は短歌でないとだめなのか?

【この記事の要約】
ナナロク社から刊行された『今日は誰にも愛されたかった』(谷川俊太郎、岡野大嗣、木下龍也)を読んで考えた、短歌という詩形の制約と、短歌を作る理由の話。

こんにちは。第三滑走路の森です。

ナナロク社さんから、谷川俊太郎さん、岡野大嗣さん、木下龍也さんの3名による共著『今日は誰にも愛されたかった』が刊行されました。

Twitter上では、3人が集まって何かをしているというような話が昨年末からちらちらと出ていて気になっていたんですが、無事一年越しに本となって刊行されることになりました。

というわけで今回は、『今日は誰にも愛されたかった』を読んで考えた、「短歌」という表現形式自体についての話です。

まずは著者の3名の簡単な紹介から。

谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんは1931年生まれの詩人です。谷川さんの活動については挙げるときりがないと思うんですが、とりあえず僕は、第一詩集の『二十億光年の孤独』や、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌で認識しています。(僕がここで紹介するまでもない有名人であることだけは間違いないですね。)

岡野大嗣(おかの・だいじ)さんは1980年生まれの歌人です。2014年に第一歌集『サイレンと犀』を上梓し、今年10月には待望の第二歌集『たやすみなさい』を刊行したばかりです。イラストレーターの安福望さんの絵と一緒に短歌を投稿するTwitterアカウントも人気で、リツイートで回ってきたのを見たことがある人もいるかもしれません。

木下龍也(きのした・たつや)さんは1988年生まれの歌人です。すでに詳しく紹介した記事があるので、以下をご覧ください。

さて、それでは『今日は誰にも愛されたかった』の内容に入っていこうと思うんですが、その前に、注意点があります。

『今日は誰にも愛されたかった』という本は、大きく分けて、連詩『今日は誰にも愛されなかった』と、その「感想戦」の2つのパートからなります。(エッセイなども収録されていますが一旦措きます。)

僕はこの記事を、連詩『今日は~』のパートのみを読んで書き始めています。つまり、今のところ「感想戦」の部分は読んでいません。

なぜそんなことをしているかというと、純粋なテクストとしての連詩『今日は~』を読んで感じた、この作品に対する評価と、それを発端に考えたこととを、できる限り純粋な形で残したい、と思うからです。

したがって、これから書くことは、一冊の本としての『今日は~』に対するものではなく、連詩作品としての『今日は~』に対するものである、ということをご承知ください。

なお、記事の最後に、「感想戦」以降を読んだうえでの感想を付記する予定です。

岡野さんと木下さんの短歌のキズが目についてしまう。

これが、僕がこの連詩を読んで感じた正直な感想です。
僕が岡野さんと木下さんの短歌をかなり読み慣れているせいでいろいろなところが目についてしまう、ということはおそらく多分にあるので、そういうことを感じたのは僕だけという可能性も全然あるんですが、とにかく僕はそう感じました。
なぜこういう感想が出てくることになったのか、がこの記事のメインの話題になります。(方向性としては批判的なものになってしまいますが、なるべく建設的になるように努めて書きますので、よろしくお願いします。)

さて、このことを論じるために、まずこれまでの岡野さんと木下さんのこれまでの作品について僕が魅力的に思っているところを説明しようと思います。(岡野さんと木下さんの作風を雑にひとくくりにするべきでない、とは思うのですが、今回の話においては検討のうえでくくらせてもらいます。)

魅力的な点について、大きく

①気づきの視線の鋭さ
②意味内容および詩的な味わいの明快さ

の二点があると考えています。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使
/岡野大嗣
邦題になるとき消えたTHEのような何かがぼくの日々に足りない
/木下龍也

どちらの歌も、日常の機微をうまく切り抜いて詩情を抽出し、非常にわかりやすい形で歌うことに成功しています。

さて、そのうえで、今回の連詩に収められた岡野さんと木下さんの短歌はどうだったかというと、その点についてはこれまで同様の魅力をもっていると思っています。

四季が死期にきこえて音が昔にみえて今日は誰にも愛されたかった
/岡野大嗣
かなしみのフルコースです前菜はへその緒からのはるかな自由
/木下龍也

僕がこの連詩において感じた、岡野さんと木下さんの短歌のキズは、主に韻律にまつわるものです。

信号の赤とガストの赤は違うことをふたりで愛でながら歩く
/岡野大嗣
まぶしさに視線を折られぼくたちは夕日の右のビルを見つめた
/木下龍也

たとえば岡野さんの歌。三句と結句が字余りになっています。字余りが必ずしも悪いかというとそんなことはなくて、結句がだらりと伸びて終わることはこの歌にとって悪いことではないと思います。問題は三句の方で、〈赤は違う〉で一つの意味の塊を成しているために、前から読んでいくと、この6音を5音ぶんの拍で駆け足気味に読み切ることになります。ここを駆け足気味に読み切るということは、三句と四句のあいだに間が空いてしまうことになります。しかし、全体の構造をながめてみれば、〈信号の~違うこと〉で一つの意味の塊を成しているため、〈違う/ことを〉と間をあけて読む仕方では気持ち悪い後味が残ってしまいます。

木下さんの歌の場合は、短歌の定型にうまく収まっていますが、僕は〈視線を折られ〉の部分が気になってしまいます。〈ぼくたち〉は「視線を折られて」と言うんじゃないか?と思ってしまう。〈ぼくたち〉の未熟な主観性と〈折られ〉という書き言葉的圧縮による客観性が入り混じって、少し気持ち悪い。「折られて」とすると定型をはみ出てしまうから〈折られ〉としているのではないか?そういう「やりくり」のあとを感じてしまう。

普段の岡野さん木下さんの作品にも(そして他の人の作品にも)こういう点は多かれ少なかれあるのだろうと思うのですが、そんなに気になりません。
ただ、この連詩ではこういった細かい点がかなり目についてしまう。

岡野さんや木下さんが短歌でしようとしていること(≒先ほど挙げた魅力的な点を生じさせる理念)を包括的に表現するとすれば、「より日常に近い語彙や描写を使って、万人にとって共感性の高い詩を立ち上げる」という感じになるのではないか、と思っているんですが、この連詩に収められている谷川さんの自由詩も、多くが同様の理念のうちにカテゴライズできるのではないかと感じています。

僕らはこれまでもう何千回も出たり入ったりしているけれど
ドアという奴は開けるときよりも閉めるときの方が品がいい
/谷川俊太郎

谷川さんと、岡野さん木下さんが、方向性として同じことをしようとしているからこそ、問題に目が向いてしまう。

この連詩は、岡野さん(短歌)→谷川さん(自由詩)→木下さん(短歌)→谷川さん(自由詩)→岡野さん(短歌)→谷川さん(自由詩)……という形で、短歌と自由詩が交互に登場する形式になっています。

これはかなり稀有な体験です。
ふだん僕たちが短歌を読むとき、歌集や連作のなかでたくさんの歌を連続して読むか、評論の中やTwitterにおいて一首単独で読むかすることがほとんどです。
全体が詩としてのひとつの作品であるという前提の下で、一首ごとに散文形式の詩が挿入される形式にはなかなか出会いません。

短歌には短歌のリズムがあるわけですが、それはかなり独特のものです。
さらにそのリズムを実現するために先ほど「やりくり」と呼んだような独特の所作も存在します。

作者はこういった独特さに邪魔されないように読者にうまくメッセージを手渡す必要があり、読者はそういった独特さをうまく捌きながらメッセージを受け取る必要がある。
こういった作者と読者との短歌を介した関係を築くうえで、今回の連詩という形式はかなり困難を伴うものなのではないかと考えています。

たとえば、岡野さんは『たやすみなさい』において歌集全体に「気の抜けたナマの話し言葉の感じ」を導入することで、「韻律の滑らかでなさ」や「やりくり」を「舌足らず」という味で覆い隠すことに成功しているように見えます。しかし、4回に1回しか出番が回ってこない連詩においてそういった手法はなかなかうまくいかないでしょう。

また、定型という型にとらわれずにのびのびと書かれた谷川さんの自由詩が逐一はさまることによって、二人の短歌の韻律が効果的であるか否か、本意でない「やりくり」がなされていないかどうか、といったジャッジの目が無意識に厳しくなるといったことも当然起こると思います。同じことを目指している詩がならんでいて、一方はのびのびと書かれていて、もう一方は窮屈そうに書かれていたり、読むときにぎこちなくなってしまったり、ということがあれば、それは明確にキズとして映ってしまう。

ここまで、岡野さんと木下さんの短歌の、韻律や定型に関するキズについて批判的に話してきました。
さて、ここからが僕の考える問題の核心です。

岡野大嗣と木下龍也はなぜ、谷川俊太郎の自由詩に「短歌」を連ねたのか?

僕は、岡野さんも木下さんも、メッセージ性や詩的味わいで勝負できる魅力的な書き手だと思っています。
だからこそ、今回の連詩においては、谷川さんに倣って自由詩を書いたほうがよかったのでは?と思ってしまう。
今回の短歌は定型の制約を受けるばかりで、その制約をプラスに変えるようなものにはなっていなかったのではないか。
わざわざ詩形に短歌を選択しなければ、先に挙げた短歌の韻律にまつわる困難を抱えることはないわけです。

ふだん短歌をメインに活動することにはおそらくいろいろな理由なり目的がありますし、特段の理由・目的もなく短歌を作っている人もたくさんいると思います。そしてそれは、そういうものだと思います。

しかし、こと今回の連詩においては、「谷川さんの自由詩に、自由詩ではなく短歌を連ねること」の意味を考える必要があったのではないか。
「新鋭歌人代表」として行う「国民的詩人」との共作/競作に出した歌が、別の詩形で書いた方がいい作品になるんじゃないか?と思わせるような短歌ではいけないのではないか。

たとえばお二人の過去の短歌でいうと、以下の歌は短歌の定型を味方にすることに成功した、短歌でないといけない、短歌ならではの詩だと思います。

市役所のボールペンをつなぐ紐が長い みんなへ首をふる扇風機
/岡野大嗣『たやすみなさい』
ああサラダボウルにレタスレタスレタス終わらないんだもうねむいのに
/木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』

岡野さんの歌。暑い中、面倒な市役所の手続きをしなければならない。だるくて気が散って、ボールペンをつなぐ紐に目が留まる。〈市役所のボールペンをつなぐ紐が長い〉という言い方は、ほとんど最低限の簡潔な描写と言えると思います。けれど、本来17音しか入らないはずのスペースに配置されているおかげで、とても冗長に聞こえる。その冗長な感じが、暑くて扇風機がついている市役所の雰囲気に非常にマッチしています。

木下さんの歌。〈レタスレタスレタス〉で1音はみ出るところが、終わらなさに直結しています。この歌を初見で読むとき、〈ああサラダ/ボウルにレタス/レタスレタス〉という風に区切りが生じるので、3つのレタスを、徐々に早く、弱くなるように読むと思うんですが、それも定型を土台に韻律を構築してこその効果だと思います。

自由詩にはできない、短歌ならではの表現は、上に挙げた例以外にもいろいろ存在するはずです。そういう表現を連詩のなかで、意識的に、明示的にやって見せてほしかったと思っています。そのようにしてはじめて、「短歌」と「自由詩」を連ねることに意味が生じるのではないか、とも。

以上が、連詩『今日は誰にも愛されたかった』を読んだうえで僕が考えたことになります。

「感想戦」以降の部分も読ませていただきました。ここからは、一冊の本としての『今日は誰にも愛されたかった』の感想です。

読者の視点からはなかなか気づけないような点にも言及されていて、とてもおもしろく読めました。特に、

―  連詩だと、大体一回の順番につき三行とか五行くらいの詩を書きますが、短歌だと、一首は五・七・五・七・七の、一つの作品でもありますよね。そこの違いはどうですか?
谷川 違いはあると思う。なんかあの……緊張感がありますよね、自由詩に比べて。短歌は一行だけでぴっと自立しちゃうから。それを受ける張り合いみたいなものがあるんだけど、下手に受けると自由詩がすごくだらしないものに見える恐れがあるんですよね。だから内容の濃さで勝負するしかない、みたいなところはあります。

という箇所がとても印象に残っています。短歌の側から見た自由詩の長所についてとても考えながら読んだので、逆に、自由詩の側から見た短歌の長所が書いてあったのが嬉しかったです。

一般的な歌集に比べて、収録されている作品の数はとても少ないわけですけれど、作品数あたりの読みごたえは非常に高い本だと思いました。(連詩の中身について批判的なことを言いはしましたが、)ふだん短歌を読まない人にも勧めやすい良い本だと思います。

この記事を読んで、本当にこいつ(僕)の言ってることは正しいのか?と思った方は、ぜひ実際に読んで、自分の感性でどう感じるかを試してみてください。
僕の意見に共感するか反発するかはともかくとして、面白い読書体験になることは間違いないと思うので。

とにもかくにも、トリオ市川(谷川さん、岡野さん、木下さんのトリオ名だそうです。本を読めばいきさつがわかります)の次回作を期待しています。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
Twitterのほうでも短歌の話をしていますので、そちらもチェックしてみてください。

最近はnoteに作品をアップしたりもしていますので、ご興味あればぜひ。

それでは。

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