今朝平遺跡 縄文のビーナス 10:方位石と磐座
豊田市足助町(あすけちょう)の飯盛山(いいもりやま)登山道は途中から急峻になり、頂上に上がるまでに3度ほど休息を取る必要がありました。1年前に登った時は前日までの雨で湿度が高く、汗だくになり、タオルを持ってこなかったことを後悔しました。
尾根に上がってからの登山道は以下のような、比較的傾斜のなだらかな通路が増えて来た。
花崗岩と思われる石は上記写真のように、ところどころに出現した。
ここまで1時間あまり掛かっている。
頂上が近くなると、初めて見上げるような巨石が出現した。
●地衣類
飯盛山で遭遇した石で、もっとも大きな石だった。
表面の90%はマメヅタが覆い、中腹に1ヶ所、白い地衣類が繁殖しており、その部分とその下部をマメヅタが繁殖を避けている。
これは地衣類がアレロパシー(他感作用)と呼ばれる、他の植物の生長を抑える物質(アレロケミカル)を放出しているからだと思われる。
地衣類の下部もマメヅタが避けているのはアレロケミカルが水分接触で滲出したり、地衣類の残渣が下部にも蓄積している可能性があるからだとみられる。
アレロパシーは植物だけではなく、動物や昆虫、微生物を防いだり、あるいは引き寄せたりする効果も発揮する。
地衣類(菌類と藻類の複合体)と苔(蘚苔類)は繁殖の仕方が似ていることから、どちらも名称は「○○ゴケ」とされることがほとんどだ。
藻類は光合成するので色が緑がかった地衣類も存在はするが、灰色、橙色などが主で、苔のような鮮やかな緑色のものは存在しない。
逆に言うと苔は光合成するために陽光を必要とするが、地衣類は苔ほど陽光を必要としない。
胞子で繁殖する地衣類は苔よりも、やはり胞子で繁殖するキノコに近い存在だ。
この白い目印のような地衣類の繁殖した巨石を回り込み、最後の急坂の麓に方位石を見つけた。
10年前にやって来た時には方位石であることは、その形状から察知していたのだが、方位磁石を持っていなかったので、確認することはできなかった。
なので、昨年はケータイに方位磁石アプリケーションをダウンロードしておき、二つセットになった石のスリットに方位磁石を表示したケータイを置いて、方位石と一緒に撮影しようと、9年前から考えていたのだ。
方位石とは二つセットになった石のスリットが正確に南北か東西を向いている石のことだ。
昨年、ここにやって来た時は方位石の周辺に杭の切れ端が落ちていたので、それをスリットに平行に置いて、ケータイを乗せる台にして撮影した。
●方位石
夕刻で、手ブレ補正撮影でも画面が手ブレしているが、北を示すアプリケーションの赤い針先が手前(北)を向いていることが確認できる。
10年前と違って、雨後の方位石は石が湿っており、白緑色の地衣類が明快に浮き上がっている。
東西・南北を向いた方位石がいつの時代に誰が利用したのかは不明だが、農作業の時期や漁業に利用するための星見石(特定の星の方向を確認するための石)や日本各地に存在する日和山(ひよりやま)に存在し、船乗りが船を出すか否かを決定するために日和(天候)を見る際に方角を確認するための方角石の多くは江戸時代に利用されているので、記録が残っている場合もあるのだが、それ以前のものは記録が残っていないので、古代に利用されたものである可能性がある。
方位石は愛知県瀬戸市の猿投山(さなげやま)で二つの石をセットにしてスリットを東西に向けたものを複数、見つけている。
飯盛山でも猿投山でも、方位石が地元で認識されている様子は見られないので、興味を持たれていないようだ。
方位石脇の急な階段を登ると、通路がT字になっている場所に出るが、登り道を選択すると頂上に出た。
頂上は完全に平らではないが、整地されており、その南西側の入り口に鉄杭と鎖を張って瑞垣(みずがき)とした石群の前に出た。
磐座(いわくら)だ。
飯盛山の麓からここまで、1時間半くらいだろうか。
1年前に登った時は、登り始めた時間が遅く、光量が足りなかったようで、多くの写真が手ブレになってしまった。
●磐座
磐座とは古神道における岩に対する信仰のことと説明されているが、明らかに古神道が起きる以前から存在しており、古代から存在したと思われる精霊崇拝の一種だと思われる。
通常の磐座なら、複数の石だけで構成されているのだが、ここの磐座は上記写真手前のように、岩の一部が土を被って、塚のようになっている。
もっとも高い場所に突き出ている石には注連縄が掛かっており、その手前には石祠が祀られている。
飯盛山の頂上は飯盛山の麓の西北西に位置する足助八幡宮(際上記地図に表記)の奥宮と位置づけられており、石祠が、その奥宮なのだろう。
張ってある鎖は絵馬掛けになっており、草履型絵馬が並んでいる。
草履型絵馬は足助八幡宮で発行されている。
「足助」という町名はここの岩に腰を下ろした神の足が足助八幡宮を向いていたことに由来するという、もっともらしい説があるようだが、神道的には、この巨石群を依り代として神が降りたと解釈されるのだろう。
磐座奥の屋根のある場所は休息所だ。
磐座の主要部の左手に回り込み、石祠の正面から撮影したのが下記写真。
石祠内の石板には何も刻まれていないが、おそらくこれが明治初年まで、ここに祀られていた「嶽の宮(たけのみや)」で、10年前にここにやって来た時は祀られていなかったので、それが復活したのだろうか。
嶽の宮は明治初年に飯盛山の西北西に祀られている足助八幡宮に移されたということなので、足助八幡宮境内社嶽宮の本宮なのだろう。
この石祠は足助八幡宮の方向というよりも、かつてのシリウス(現在の北北西に存在した星)に向いているように見えるのだが、後で方位磁石アプリケーションで確認しようと思ったまま、確認するのを忘れた。
下記写真は10年前に休息所側から、できるだけ多くの石が収まるように撮影したもので、奥の石の周囲に囲った鉄杭には鎖は張られていなかった。
足助八幡宮が認識している磐座は塚になっている部分だけのようだが、実際の巨石群は、かなり広い範囲に散らばっている。
上記写真中央部に見えるピーナッツの殻が地面に埋まっている形の巨石に寄って撮影したのが下記写真だ。
山頂にある石が角が取れて滑らかな形をしているのは、隆起する前に海中にあった時代に波で角が取られたのか、地中に存在していた時代に花崗岩として生成された際、熱されたマグマによって角が取れたものなのだろうか。
下記写真は瑞垣で囲われた部分とピーナッツ形の石をまとめて収めたものだが、こちら側(南東側)から見ると石に土が被っている部分は見えず、石だけで構成されているように見える。
下記写真は、もっとも南側に位置する巨石を撮影したものだ。
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10年前にやって来た時には、飯盛山に登って来た同じ道を戻るのはつまらないので、頂上下のT字路を、登って来た方向(北西側)とは逆側(南西側)の中腹に位置する飯盛山 香積寺(こうじゃくじ)に向かって降りることにしました。
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