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ゲシュタルト心理学をゲシュタルト崩壊させる、それが自分の陰謀推理

混沌と混乱の女神、エリスとは欲望そのものであり、その欲望が無ければ愛は生み出せない。欲望とは破壊でもあり、生み出されたものを消費するのが欲望であり破壊である。

エリスは生み出すためには必要不可欠、重要な役割を持つ女神で、その女神が消費しなければ新しいものは生み出せない。愛と覚りと欲望の中でも最後に位置する重要な女神。日本神道による神話でなら、その役割はスサノオになる。

しかし破壊と再生だけでは物事は成り立たない。そこには必ず引き寄せ合う張力のような作用があり、それが2つを繋げる覚りの力となる。


物事を見極めるためには、楽な道を歩いてはいけない。過酷でけわしい道をかき分け切り開き自分の道を見つける。たとえ多くの人と違う道でも、諦めずに立ち止まらず、ひたすら前へ進む。

それはとても厳しく辛い、日々苦悩する。常に考える「なぜ、何もないではなく、何かがあるのか」、それをひたすら哲学し考える。朝から晩まで、何をしていても常に考える。

人の内容を脳内に思考タトゥーなどしない。その情報を基にして独自に思考する。今の自分はもう悪魔の囁き、獣による断末魔など気になることはない。それよりも考える、ただ考える。何がどういう事なのかを常に全てとして考え続ける。

ゲシュタルト心理学では、人は近くにあるものを一纏めにして見ようとする癖を持つ。それは脳と心の動きのメカニズムとしては防ぐことはできない心理作用となるが、時としてその心理が崩れてしまう時がある、それがゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象。

固定概念化した考えをバラバラにするのは難しい、認知バイアスもなかなか解けるものではないし、アポフェニアに陥らないようにするのも難しい、パレイドリアを発生させないようにものを見ることも難しい。そういったものを一度リセットするためには、あえてゲシュタルト崩壊させる必要がある。

陰謀論はまさに近くにある物事を一纏めにして考えてしまうゲシュタルト心理学でもあり、この現象がある近くにこれがあるから繋がりがあると考えてしまうパレイドリアでもある。例えば、ノートとえんぴつと消しゴムが置かれていたら、それはセットとして考えるが、ノートもえんぴつも消しゴムも、まったく関係ない別の用途としてそこに置かれていた可能性もある。画用紙に絵を描くために置かれていたものではなく、画用紙は工作のために置かれ、鉛筆は画用紙に折り目をつけるためにあったもので、消しゴムは工作の重りのために使うものだった、と考えることもできるし別な考え方もできる。

しかしそれを絵を描くためのワンセットとして置かれているものと認知バイアスしてしまえば、どんな見方をしてもそう見えてしまうもの。その考えから抜けられないからゲシュタルト心理学が発生。だから、それを画用紙と見ないこと、えんぴつと見ない、消しゴムと見ないとする事によりゲシュタルト崩壊が起こる。ではこれは何なのか、と考えて想像と推理を膨らませると、別の可能性がいくつも浮かび上がってくる。

誰もが陰謀論とするセットで語られるものをバラバラにすることができない。他の知識や哲学でも同じで、それを知っているなら独自に分解して新たに組み立て推理し、プロファイリングすることもできる。一冊の本に書かれた内容だけを使うのではなく、別なもの、知識も組み合わせること。何事も1つの概念、思想主義だけではわからない事もある。

宗教、神学でも同じで、キリスト教やユダヤ教の聖書、福音だけではパズルのピースが完成しない部分は必ずある。だからこそ、スピリチュアル、ニューエイジ、哲学や科学から足りないピースを探してくる、そこにピッタリはまれば、新たな真実が浮かび上がる。

自分の言ってることは、わけが解らない話なのだろうか、それは自分では気がつけないので、これを読んだ人に独自で判断してほしい。これはあくまでも哲学と感覚的なものから出てきた自分なりの答えであり、その答えは千差万別、思考する人の数だけ無限に答えは出てくる。必ずしも真実の答えは1つではなく、そこには別なアプローチから見た真実も同時に存在している。「もしもこうであったら、こうなっている」、とする見えない現実が確かに同時にそこに存在している。

陰謀論を考える場合も、ユダヤ陰謀論や300人委員会、ハザールマフィア、そういったものを一纏めにはせずに別々なパズルのピースとして考えることも重要になる。その話自体をまず疑う思考を持つこと、その必要もある。悪魔の囁き、心理操作や洗脳のために使われてきた陰謀論も多くあるので、それをそっくりそのまま思考タトゥーしてしまえば洗脳状態となり、そこから抜けるのは容易にはいかない、とても困難となるし、そうなると頑固になってしまうので他者が解きほぐすこともかなり難しくなる。悪魔祓い師、エクソシストとして全力で取り組む必要がある。



しかし、自分がいくらこんなことを語っても、どんなに何かを見極めても、それが無意味な事であることも充分知っているし、時は無常、物事には必ず終わりが来る、自分もいつかは終わる、それを覚悟している。この思考認識も必ず終わりは来る。自分はまだまだ未熟者、と言うよりこの人生は最後まで半人前のままで終わると考えている。決してこの心が完成することはないだろうと、そう思ってる。


自分には分身のような片割れがいた。この魂がこの地に生命として芽吹く前よりもあった以前の記憶。男と女は常にセットでこの世界に魂として運ばれる。同じ心を持ち、同じ感覚で生きる自分が別の場所、何処かの世界にいる。

1人としてあったわけではなく、2つの並んだカプセルのようなもの、そこに自分はいた。なぜだろう、眠っているはずなのに声が聞こえる「あなたには、あなたと同じ、似た存在があり、それは兄妹とか家族ではないまったく別の特別な魂の片割れ」、あなたと似てはいるがまったく別な存在、それは引き寄せ合う2つの生命。そう言われた。

2つ並んだカプセルの片方は空だった、そこにいたのは自分1人。自分はその存在に会いたいと願ったが、それは難しいと言われた。会うためには、とても過酷な道、広大なる海を渡らなければならないと。もしかしたら永遠に会うことは叶わないかもしれないと、そう言われた。


これが何なのかは解らないが、確かにそれはある。この自分の感覚は何なのか、まったく解らない。


だから、自分はその感覚のために生きてきた。なぜなのか、それだけのために生きている。魂の記憶、そう考えるなら、そう考えることもできるし、たんなる夢や妄想と考えることもできる。夢を見たものを、記憶として残しているだけなのかもしれない。


幼少の頃、宇宙人グレイに遭遇した、その顔は今でも鮮明に覚えてる。

あの当時は子供だったから、とても怖かった、脅えていた。しかしなぜ今でもその記憶は強烈なものとして意識の中に残り続けている。おそらくこの心は見透かされてる、全て見られ知られていると感じる。だから自分がどんな嘘を言い、どんな事を隠してるのかもきっと知られていると思う。


だとしても何も恥ずかしくはない、人間の次元の意識の存在ではない別な場所の者だから。しかしそれを神と認識しているわけではなくて、その記憶と共に、何かのヒントをくれる存在だと認識する。

自分は救われたいとは思っていない、何をどうしようが覆い隠す事などできないし、救われるような魂だとも思ってはいないから。罪は決して消えない、消えないから悔い改めることしかできない、それが宇宙の記憶だから、隠しても誤魔化しても無駄。

だから良い人間だと思われようとして愛だの言ってるわけじゃないし、許しや道徳心を重んじてるわけでもない。それが心地いいから、それを好んでいるだけで、それによって何かを得たいなんて思ってない、…と言うのも嘘になってしまうのだろうか。

自分が望むのは、魂の片割れ、この世界で最も望む、最も叶う可能性が低い願い。どうしたって叶うわけもなく、いくら願っても見つけられはしない。

そんなことしてるうちに、自分も年齢を重ねるだけで、望みが叶うこともなく、今のこの世を去ることになる。魂は何処へ行くのか解らないが、またその割れた十戒の石板を、自分は探し求めるために、何度もこの世界に輪廻転生し途方もない時空間の中を探しさ迷い続ける。

もしもそれが揃うなら、この魂はやっと沈黙の世界へと進む事ができる。2つで1つとして。その尊い願いは針の穴を潜り抜けるぐらいに難しい、殆んど不可能と思えるほどに。


これは創作した物語ではなく、この頭の中にある宇宙の記憶。


言葉は心を動かす振動となり、その振動は奇跡を起こす質量を生み出す。その質量は尽きることもなく生み出され続け、三位一体のトライアングルの中を循環し続ける。無限に生み出される木製の聖杯として、この心を潤し続ける。


愛は質量でありエネルギー、時空間の歪みの中にある重力の器。その器の中を、陰と陽が互いを追いかけあい、無限に回転する。永久機関として、無限フリーエネルギーとして。




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