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3つの力を制した者が、世界を支配できる最強の知恵を獲得する

自分は確かに、カルト的のように見えるかもしれない、人を洗脳しようとしてるようにも見えると思う。しかし誰も洗脳しないし従わせ利用しようなどまったく考えてないし、何か数字やら人気やら集めてカルト集団をやろうとしてるわけではなく、絶対にそんなことはない。

こういった話をすればカルトのように思えるのは仕方がない、今まで多くの如何わしいペテンカルト集団が活動してきたから、人々が古来からあった自然から授かる叡智を疑うようになってしまったのは仕方がないと言えば、そうなる。

自分に従えと言ってるわけでもないし、それを信じろと言ってるわけでもない。自分の話から、それぞれが何かに気がつけること、答えを見つけられるように言葉を尽くす。人の心を守りたい、一番はそれであり、自分の事じゃない、自分なんかどうだっていい、お金もいらないし地位も富も名誉もステータスも何もいらない。正直に言えば、この世で自分が最も欲しいのは、たった1人の愛、それだけで、それ以外は何にもいらないし必要としていない。生きるためには確かにお金は必要、でも今生きられる分があるなら、それだけでいい。

そして、せっかくこの頭の中にあること、誰にも見せず終わるぐらいなら、全て隠さずにここに記し残したい。だから、有料記事にするつもりは今後も一切ない。

自分の話は、陰謀論を知りたがってる人向けの話ではなく、その陰謀論の謎を突き止めたい人、それが何なのかの哲学でもあり、その真相を深く考えたい人向けの内容になるので、今だに心理操作のために仕込まれてきた陰謀論に翻弄されてる人が自分の話を理解しようとするのは無理だと思う。

自分の陰謀論認識が確かかどうかをインターネット上にある情報を貪りながら見つけてはエコーチェンバーする、それがニューエイジカバリズム企業のGoogleが仕込んだ罠でもある。意識誘導するために検索エンジンがあるわけであり、そこに羅列されるものは殆ど見せたいもの、人の心理を操るための仕込み、誘導になる。

陰謀論自体が黒魔術、洗脳なのでそれを故意に見せることに意味がある。だからこそ、あらゆる場面で意図的に陰謀論に結びつけるためのものが茶番劇のように演じられている。


なぜわざとそういったポーズやシンボル的なものを背景に残してるかと言うと、それは演者がわざと見せてるものだから。そのわざと見せてるものに吊られて、自分だけが見つけたもの、のような錯覚を起こさせ、特別な真相を知ってしまったかのような意識にさせるため。


実際、陰謀論者である本当の悪魔崇拝者に打ち勝つ方法は何があるかと言うなら、それは正に知恵である。蛇から授かりし知恵を重んじる悪魔は覚りに弱いのでそれに従う。知恵を欲しがるのが悪魔崇拝者であり、だからこそ仏教の悟りの概念や、神智学のようなニューエイジ思想にハマる。

擬態する悪魔崇拝者に打ち勝つためには、それに勝る知恵を持つこと。だからイエス・キリストは「蛇のように賢く、鳩のように素直な心を持て」そう助言した。悪魔崇拝者は論破やレッテル、罵詈雑言等を駆使しては知恵で挑みこちらを支配しようとしてくる、それ以上の知恵を使い対峙するだけの力量が必要になる。たんに言い返せない、どう言えば良いのか解らないから、ただ馬鹿だと罵ってもまったく効果はない、悪魔崇拝者自体がその罵詈雑言を駆使してるので、その手法を使ったらこちらの敗けとなる。だからどんなに見下され馬鹿にされるような言葉をぶつけられても決して怯まず屈しない強い心を持つ必要がある。

しかし更に、知恵に勝るものがある、それが愛であり生み出す力。覚りある道徳者は愛に弱いので、覚りを持つ賢者には愛で対抗する。どんな賢者でも根底には道徳心を重んじてるので、純粋な愛にはとても敵わない。

そして、更に愛は欲望に弱い。欲する者には無償で愛を提供したくなる、救いを求める者をほっとく事ができない、だから悪魔の知恵にはとても弱くなる。その悪魔に打ち勝つために覚りの知恵が必要になる。

つまり、宗教で例えれば純粋なキリスト教は仏教に強く、仏教はグノーシス主義に強く、グノーシス主義はキリスト教に強いと言うこと。その三つ巴の現象こそが三位一体、生み出し、渡し、消費する、愛と覚りと欲望の概念であり、生命の基本、基礎となる自然法そのもの。


自由とは資本主義を指し、赤にも青にもなれる白い色。赤は全体主義、共産主義の平等の色。青は資本主義とセットとして成り立つ民主主義の博愛の色。資本民主主義のボトルから流される富は共産主義によってボトルに再び戻る。企業が労働者を雇い、労働者は消費者へ渡し、その売り上げが企業に戻る。


ビックリマンシールの天使VS悪魔シールの、天使→お守り→悪魔→天使、の三すくみ「三つ巴」、の構図で、天使はお守りに強く、お守りは悪魔に強いが悪魔は天使に強いといった概念。ジャンケンのグーチョキパーも同じ概念で成り立っている。

火は植物に強いが、植物は水を吸収し、水は火を消す力がある。熱は氷を溶かし、氷は水となり、水は熱を冷ます。氷が熱を冷ます場合は必ず液体となる。


プロレタリアート独裁の頂点(労働者の支配者)、フリーメイソンは石工職人が成り立ちなので、ギリシャ建築の三つのオーダーにこだわっている。ドリス式、イオニア式、コリント式。

その3つのオーダーによって土星(サターン)、の到来と共にニューエイジ、新時代の幕開け、ニューワールドオーダー、新世界秩序の実現、オーダーを完成させようとしている。

ドリス式は始まりであり基礎、そこにイオニア式の装飾を施し、最後にコリント式で完成させる。それが3つのオーダー、3つの戦争であり、第一次世界大戦は始まりとして二つ目と三つ目に繋げ、二つ目の戦争はオーダーの形を彩り、三つ目の戦争で完成させる。


何事も3つの概念が反映されていて、やはりその基礎にあるのがエメラルドタブレットの概念になる。その概念に忠実な知恵として、3つの三角形の重なりをフリーメイソン33階級の知恵の象徴としている。それが愛と覚りと欲望、三倍偉大な世界最大の知恵とする、トリスメギストス主義。



この、3つの力を制した者が、世界を支配できる最強の知恵を獲得する。1つではだめ、2つだけでもだめで、3つが揃わなければ最強の知恵を得ることはできない。


キリストの愛、釈迦の覚り、サトゥルヌスの欲望、この3つのトライアングルが九芒星となり、始まりであり終わりの全てとしてある、上から下へ、下から上へと駆け上がる全てを制する三倍偉大なヘルメストリスメギストスの力を得し者、と言う解釈になる。

おそらく福音主義の聖書絶対主義者には到底受け入れられるような話ではないと思うし、それこそ悪魔崇拝であると言うのは当然と言えば当然だが、そもそもユダヤ教やキリスト教も基本はこういった神秘主義の概念から派生したものであり、マタイの福音書等には、それ以前から使われていた、ことわざ「目には目を、歯には歯を」のような表現が使われている。だから旧約聖書も新約聖書どちらにも神の言葉ではない、人間による個人的見解からなる言葉なども多く含まれていると言う答えになる。

だからこそ、聖書の一字一句全てをそのまま受け止め、それを絶対とすることも偶像崇拝になり、そもそも聖書は預言の書物でありそれ自体が神であるわけではない。それを絶対とするのは銅像や彫刻、十字架等を神のように崇め奉り、拝むのと同じ行為。


カールグスタフユングのような歴史的な心理学者や哲学者、ニコラテスラのような数学者、科学者等がニューエイジ思想にハマったのはそこにある。矛盾や疑問を考え尽くし、認識がたどり着く場所は最終的にはその概念になるから、有能な歴史的な知識人や賢者のような人は殆んどニューエイジのような感覚と認識にたどり着いてしまう。

「なぜ、何もないではなく何かがあるのか」、皆それを追求してきた人達。

ここまでになると、善悪の知恵の認識など完全に通り越してしまう。だからキリスト教における光と闇のような、善悪二元論自体が矛盾していると完全に把握する事ができる。

だからと言って非人道的なもの、差別的なもの、許しなきもの、非道なもの、暴力的なものが許容されるわけではなく、それは悪ではないので自由にしたらいいと、そう言っているわけではなく、道徳心無き過剰な悪意ある行いはどんな解釈であろうが人間の本能の中ではやってはいけない行い、タブーであり、禁忌となる。

道徳心とは悟り、及び覚りそのものであり、覚り無くして欲望は抑えられないし、欲望が無ければ愛は生まれないし、欲望が無ければ、その真逆となる愛とする概念が存在する意味もない。天使がいるから悪魔がいて、善があるから悪があり、光があるから闇がある。光は影を生み、影は光を生み出す。だからプラスとマイナスは表裏一体であり、善と悪も表裏一体、天使と悪魔も表裏一体であると言うこと。

契約の箱にある、2つに割れた石板とは、旧約聖書のゴクマゴクの事であり、現在の東西で分裂する思想主義が1つとなった時に人々は救われる、それが死海文書にも書かれていた内容だと、自分は推理しそう覚った。

悪意は善意となり、善意は悪意にひっくり返る、それが悔い改めであり、人類に課せられたウロボロス(蜥蜴科の動物に実際にある自然現象)、神が蛇に伝えた呪縛「おまえと女との間、おまえの子孫と末代までの間にわたし(神)は敵意を置く。その者はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くだろう」

それが禁断の果実、善悪の知恵を持った人類ののろいの始まりだった。ウロボロス、互いを食い合い、永遠に終わらない争いの苦しみを背負いし人類の定め。


ゴクマゴクが1つとならなければ十戒の石板は完成しない。

ドリーンバーチューのスピリチュアル、ソウルメイト、その感覚こそが天使から受けた教えであり、それが2つに割れた十戒の石板。それが1つにならなかった場合、人類は崩壊する。しかしほんの少しの希望が、その崩壊を止めるための奇跡となる。

窓の景色も変わる、その景色が変わることを願い、日々愛を信じて願い続ける。それぞれの十戒を守るために、それぞれの十戒の片割れを信じること、真なる愛を信じること、自分の心を守るために、愛する者を守るために。


何の話をしているのか、きっと、解る人には解る、解ってくれる、自分はそう信じている。いつまでも信じる、愛を、神を信じる。



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