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神を冒涜し続けたのはカルト宗教。愛を信じること、それが神を信じる心

宗教とは何か、宗教とは偶像崇拝してお金集めをするためのクラブやサークルではない。何かの像を造りそれを拝ませる行為そのものが偶像崇拝であり、旧約聖書と新約聖書共に偶像崇拝は一致して禁じられている。

神を信じることは人間を信じることではなく、カルト宗教における教祖様を拝む行いは全て個人崇拝であり、それはレーニンやスターリン、ヒトラー、毛沢東や習近平、プーチンやドナルドトランプ、元安倍総理等の人間を拝む行為と同じ。

真の信仰者なら神のみをひたすら信じ、宗教には参加せず、神の名をお金儲けになど利用せず、人間の言葉を信じず、仏像など拝まず、人間を個人崇拝しない。

信仰にバビロンにあるような徴収、搾取ビジネスのような盗賊集団による金銭の強奪行為など存在しない。


ではイエス・キリストは何なのかと言えば、三位一体の一部なので、キリストを信じることそのものが神を信じるのと同じ。友愛結社の思想にあるユニテリアン主義ではその三位一体からキリストを除外する考え方をしているがそれは間違い、その時点で神を疑う心を持たされ信仰心を失っている。

神を信じないことは悪魔を信じることになる。神への信仰心なき者は蛇から授かった善悪の知恵を重んじ、善悪二元論に陥るように極端な偏りで物事を判断する。


信仰とはブランドでもなければ、それを行っているとするステータスでもない。どんな信仰でもそれをファッションとするなら形だけの行い、信仰者の真似事に他ならない。

神を信じていると他者に証明したい承認欲求からファッション的な信仰演劇を行う。それは誰かに見せるための行い、神より自分を拝んでほしいと考える心の具現化になる。


わざと白い布を纏い、それらしい呪術のような行いをし、それらしい話し方、それらしい教えのこじつけ、偶像を生み出しそれを拝ませグッズを売り金銭を献金させる、自身の欲望を満たすために誰かを崇拝させる。それはむしろ宗教とすら言えない偶像崇拝の極みとなるカルト詐欺集団と断言しても問題ない。神はそう罵ることを赦してくれている。

カルト宗教は人を巧みな話術で騙し金銭の強奪を行ったり、その純粋なる心を利用して性的な搾取も厭わない、堂々と神に反する行いをやっている獣の群れ、悪魔崇拝とはそういった者たちのことを言っている。


神の心とはアナーキーであり、全てにおける赦しは神の愛そのもの。そこに善悪の知恵など存在しないし最初から神は全ての生命、全ての人々を赦してくれている。神の沈黙は究極の愛であり、何も言わない、何も教えてはくれないからこそ何かを教え伝えてくれる。


全てに精霊が宿り、全てに神が宿る。我々も神の体内の一部であり、だからこそ、その心の中にある赦しの心である愛こそが神の心であると言っている。

自分が神なのではなく、全てが神だと言うこと。だから全てとしてある表現となる、終わりであり始まりの全て、アルファでありオメガと表現された。

生み出し、渡し、消費し、また生み出す三位一体による自然法そのものが神である。


宗教を信仰せず、教祖や神官などの肩書きも持たず、偶像を拝まず、信仰があるとする承認欲求など持たず、他者に対して神を愛する証明のような素振りも見せず、神を憎まず神を疑わない。

神の名を使い金銭を人から奪い取ろうなど考えない。どんなに苦しくても辛くてもみだりに神の名は唱えない、神に救いなど求めない、願わない、すがらない、自分の問題は自分自身で解決する、それが神が望むこと。


何も言わなくても、その心の中には常に神はいてくれる、愛として宿ってくれる。宗教やファッションの信仰など不要、その愛を心から信じることが誰よりも神を信じ愛している証明になる。愛が望むなら、神もそれを望む、全ての答えは自分の中にある。


愛深き人々こそ真の信仰者、神を信じる、神と共にある美しき心を持つこの世界を救ってくれるメシア。

世界中の多くの人々はそれに気がつけないだけ。優しくあること、深い愛を持ち許しの心を持つこと、蛇のように賢く、鳩のように素直な心を持ち良い実がなる木を見極める。

愛を信じること、それが神を信じる心。




無邪気さの中に淋しさがあり、楽しさの中に悲しみがある。幸せの裏には不幸せがあり、賑やかな世界の裏には孤独がある。


でも、どんな境遇の中に生きている子供でも、楽しみ笑う自由がある、幸せになる権利がある、楽しく明るい曲を聴き踊る自由がある。虐待されていても、いじめられていても、そんな楽しげな曲は聴こえてくるもの。

何を大切にするか、何が愛なのか、その答えは全ての人々はもう知っているはずなのに、それを見てみないふりをする、金銭や欲望を優先させ表現の自由を奪い、それを最も必要としている人達へ届けようとしない。

自分に優しさがないなら、誰が優しくしてくれる。自分に許しがないなら、誰が許してくれる、自分に愛がないなら誰か自分を愛してくれる。

自分が神を信じないなら、誰が神を信じる。

この深き思いから流れ出る枯れない涙は、愛の聖杯から溢れ出る聖水。嘆き憤り、哀しみ、憂い、孤独の中で生きる。

愛は無償である、届けなきゃいけない人々へは無償で届ける必要がある、金銭のために必要な物事を隠してはいけない。多くの人が見られなければ愛は届かない、それが表現の自由である。

人は今を生きるために生まれてきた、皆幸せになるために生きている。幸せになってはいけない生命、人間はいない。誰にでも等しく与えられた愛の自由、それが神による自由なる秩序。アナーキー





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