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誹謗中傷とは悪魔の囁きに支配された者が吐く緑色の汚物。自分は悪魔祓い師

俺は世の中に憤る、常に嘆いてる。全てを見て、見れば見るほどうんざりして、諦めたり、開き直ったり、無理に納得しようとしたり、それでもやはり憤りは消えない。


自分は、サトゥルヌスの心も使える、だから躊躇せずその心を使うなら乱暴な表現も自由自在、世の中に腐った言葉が多いなら、同じく、それを上回る腐った言葉を使って言葉を尽くさなきゃいけない。

しかし腐ったままの言葉ではなく、その乱暴な言葉を愛に変換する、本気の言葉を使うために、俺は乱暴な口調で世の中のおかしいことを指摘する。


何故に冷酷で許しなき言葉ばかりが世の中に溢れてるのか、それを見るほどに憤りが激しくなる。怒りが蓄積し、胸くそ悪くなり、まるでくその肥溜めに浸かっているかのような感情になる。

我慢することはない、自分は覚り、愛を大事にしろとは言っているが、怒りも正義を貫くためには必要なもので、それを表現することも、とても大事だが我欲のための怒りではない、他者を、その心を守りたいとする怒りを持つことが重要。

自分のための怒りじゃない、自分のための怒りならサンドバッグでも殴ってストレス解消してればいい。俺は自分のための怒りなど、そんなに重要視していない。

てめぇ自身の心と身ぐらいはてめぇ自身で管理ができる。しかし他者がこけ下ろされ、見下され馬鹿にされ、罵詈雑言、誹謗中傷、個人攻撃を受けているのを見ると、どうしても我慢ができない。


道理は様々あるかもしれない、あるかもしれないが、どんな理由があれ大勢で個人を言葉の暴力で攻め立てるのは絶対的に間違ってる。そんなインターネットリンチのような現実がまかり通る世の中、不道徳極まりない言葉や表現で、てめぇらに従わない者をその他大勢で攻撃し続ける。

誹謗中傷がたえないと言えば、そう言った人物が揶揄され馬鹿にされ批判され罵詈雑言を受ける。そんな胸くそ悪い現象を見て、怒りが湧かない方がどうかしてる。

ビビることなんかないんだよ、そんな偏見者、偏屈者ごときに脅えてたら奴等の思うつぼになる、素直に不快なら不快だと言えばいい、それは間違ってるとはっきりと指摘したらいい。

てめぇがやられたら嫌な事を本人達が言ってるわけだから、同じように真っ当なはっきりとした意見をそのこ汚い言葉をインターネット上でばら蒔きまくってるくされ亡者の獣どもに叩きつけてやればいい。

道徳心を持っても、覚りを持っても、愛を重要としても理不尽な物事に対して怒りを我慢しろなんて言ってない。その怒りが何のための怒りなのか、それが重要であり、我欲のための怒りではない正義のための怒りが重要だと言っている。

その怒りとは、羞恥心から来るパラノイアからの怒りでもなく、自身が満たされない不満から来る怒りでもない。自分の承認欲求を満たされない怒りでもなく、支配欲を満たせない怒りでもない。自身が馬鹿と罵られた、そのための怒りでもなく、誰かを守りたいとする心から沸き起こる怒り。


俺は、誰かの心が守れるなら、自分の羞恥心などどうでもいい、プライドもいらない。そんなちんけな器などいらない、でっかい器を持って生きて行く。

お金なんかいらない、そんなもの無くてもいい、ステータスも人気もいらない、何にもいらない。何にも無いから自由でいられるし、何にも無いから好きに生きられる。

何にも無いから何者にも支配できない心を持つことができる。

好きに生きて自由にする、何者にも屈せず何者にも支配はされない。思想主義になど参加しないし、誰もリスペクトしなければ拝むこともない。同じ人間同士で上や下の意識など一切持たない。

自分がはっきりと物事を言うのは、誰も上や下になど見ていないから。誰にも拝ませないし従わせない、誰の上にもならなければ誰の下にもならない。

誰かの同調圧力には従わないし、自分の支配欲、その同調圧力に従わせようとは思わない。


善も悪も無いとは、悪意しかないと言う意味ではなく、善は悪にもなるし、時として悪は正義になることもある。しかし正直で素直な善は、善以外の何事でもない。それは紛れもない正真正銘の善であり、そこに邪な我欲が入るから悪となる。

善意に我欲が入ると悪意となる、悪意となるならそれは善ではなく悪となる。


お金や人気のために行う善行とは、それは偽善であり、その行為を攻められる原因ともなる。しかし何でもかんでも無償で行うのも、普通の感覚からすれば確かに限界ともなるので、そこに利益が発生する仕組みを持ち込むのは致し方ないとも思う。

政治家は聖職者じゃないので、無償では働いたりはしない。しかし今や聖職者ですら無償で何かをすることはなくなった。仏教では御経をあげるのにお布施を貰うが、坊主はそれで寝食を手にして来た。現代社会になり、それがお寺業とする効率的なビジネスとされ確立化されたわけだが、現代坊主はあまりにも金を稼ぎ過ぎている。

仏教において拝金主義は悪くはないとはされているが、行き過ぎるとそれはもはや宗教ではなく献金詐欺カルトと同じになる。


仏教が許容されてるなら、陰謀論の標的になっているマザーテレサをどうこう言う理由もなくなる。やってることは同じなんだから。

その行為は他にもサイエントロジー教会、ニューエイジスピリチュアルカルト集団、神智学教会、他カルト宗教が行っている事と同じであり、マザーテレサだけが責められるのはお門違いと言える。それなら、そういった拝金主義のカルト宗教と定義できるもの全てを批判しなければ公平ではない。


総てにおいて理不尽で不道徳な世の中、綺麗な世界など何処にある。こんな理不尽で不道徳極まりない世の中を更に言葉で汚し続ける人々、俺はそんなのを見てれば見てるほど深く憤るし嘆き怒りがこみ上げてくる。

だからと言って、それら全てを偽善だと言いながら、やさぐれ、開きなおり、平然と冷酷な言葉を言い放つような人間になど絶対にならないし「この世に神も仏もない」、そんな意識で憎しみに支配される、ダースベイダーなら暗黒面に落ちるような感情など持ったりはしない。

ジョーカーのような人間にはならず、より神を信じて生き続ける。この世が汚くて不道徳で冷酷で残酷だからこそ、なお神を信じられる。なぜなら、そうしてるのが人間達自身だから、神はそれを指摘しているし、神もそれに嘆き憤るなら、俺は人間よりも神の方を信じ続ける。

神を信じないから世の中が腐ってく、憤るような不道徳で許しない、冷酷な汚い言葉で溢れている。

だから、この世の中を信じられずにやさぐれ、心を腐らせ不道徳に身を投じる方が間違ってるし、そんな事をする人ばかりだから世の中が混沌として愛と優しさ、幸福がどんどん消え失せる。



陰謀論者、都市伝説論者がよく、実は神とはサタンであった、みたいなグノーシス主義、ニューエイジ的な見解を語るが、そう言ってる時点でその人物がサタニストであり、悪魔崇拝そのもの。神を悪魔として変換するためのプロパガンダを主張してるだけで、その時点でその者自体が悪魔崇拝者と言ってるようなもの。

悪魔とは嘘と欺き、騙しと洗脳、罵詈雑言と支配のプロ、詐欺話術のペテンカルトでもある。悪魔が嘘つきなのは当たり前であり、その悪魔の口車に乗るのが心弱き者であり、悪魔の囁きに屈してしまう、悪魔にとりつかれてしまった獣の刻印受けし者となる。

自分は、そんな人達を悪魔の支配下から解き放つために言葉を尽くしているエクソシスト、悪魔祓い師。





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