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百卑呂シ随筆

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記事一覧

コブラとティッシュ配り

 ある時、駅前でポケットティッシュを配ることになった。  人材派遣会社の採用センターにいた当時で、通常の求人広告だけだと採用が追い付かなかったので、ポケットティッシュの裏面に求人情報を入れて配布するのはどうかと提案したら、やってみろとなったのである。  誰がどう手配したものかもう判然しないが、それからじきに段ボール数箱のポケットティッシュが届いて、近隣の営業所からスタッフが二人、配布の手伝いに来てくれた。一人はザ・コブラツイスターズのギタリストに感じが似ている。もう一人はどん

幽霊と珈琲

 名古屋へ来てしばらくの間、休みの日には大体喫茶店か漫画喫茶へ行った。喫茶店では大抵読書をした。漫喫ではひとしきり漫画を読んだ後に店のパソコンからブログの更新をした。  読書もブログ更新もわざわざ出掛けなくたって自宅でできるが、そうすると休日に家から一歩も出ないことになりそうでいけない。その当時はまだ独身で、独り者が家に籠もって誰にも会わないでいるのはあんまり不健康だから、とりあえず手近な所へ出掛けていたのである。  後から考えたら、出掛けるにしてももう少し実になる先があった

冬の炎

 石油ファンヒーターが壊れたので、店に預けて修理の見積を取る間、古い石油ストーブを使っている。  やはりファンヒーターの方が部屋が暖まるようで、どうも効率が悪いようだけれど、それはストーブが灯油を燃やすだけなのに対してファンヒーターは灯油を燃やして電気で風を起こすから余分にエネルギーを使っているので、何も不思議はない。ストーブの前に扇風機を置いてやれば同じことだけれど、面倒くさいからそれはしていない。  石油ストーブを炊くと、最初に灯油の煤の匂いがする。それを嗅ぐといつも祖

4つめのリング

 四時から商談の約束だったけれど、最寄りの駅へ二時前に着いた。駅から客先へは歩きで十分ぐらいの距離である。  昼食がまだだったので、駅前で何か食べてから、カフェでメール対応などをして行く算段だったけれど、食事の前に何だか方々から電話がかかってきた。それぞれに対応して落ち着いた時にはもう三時を回っていたので、これから食事をして行くことにした。  元々、昼食はラーメンにするつもりでいたが、人に会う直前のラーメンは匂いが残りそうであんまり気乗りがしない。だからラーメンはよして、客

怒る中国人

 仕事上の用事があって、中国人社員の陳さんと二人で北京へ行った。世界が今よりももっと穏やかに見えていた頃である。  季節は五月で、日本ではもう暖かかったからそのつもりでジャケット一枚で行ったら、甚だ寒くて閉口した。見ると現地の人も陳さんも、みんなコートを着ている。 「随分寒いようだね。全体、北京の緯度は日本だとどの辺りなんだい?」  陳さんは困った顔をした。どうやら緯度という単語がわからないらしい。彼は通訳として雇われている割に、日本語のレベルが甚だ低い。  緯度について説明

雪と泥棒

 朝起きたら何だかカーテンの向うが白いようである。開けて見たら果たして白かった。夜の間に雪が降っていたのである。  積もっていると云うほどでもないけれど、庭の地面は雪を被っている。テレビをつけたら名鉄が止まっているというテロップが流れた。 「このぐらいの雪で止まるの?」と妻が笑った。  全体、名鉄は駅のホームの数が少ないところへ随分たくさんの本数を走らせるものだから、世界でもトップクラスの過密ダイヤだと聞いたことがある。それでちょっとした雪でも止めるのだろうと思ったけれど、別

雉と亀

 駅を出たら、朝停めたはずの所に自転車がなかった。有料の駐輪場に入れないでパチンコ屋の前に置いたのだから、盗まれたかも知れない。鍵を掛けておいたのに盗まれるようでは、どうもつまらない。他人の物を盗んではいけないのに、これでは道理が通らない。悪いことをする人間はどこにもいるらしい。  自分は大いに憤慨したけれど、そこないものはないので、仕方がないから歩いて帰った。  それから数日後に、自転車を一時預かり中だから取りに来いと書かれた葉書が届いた。期日までに来なければ処分するとも

剃刀の使い方

 先晩、妻が眉毛を剃りすぎたと云って娘とゲラゲラ笑い出した。翌日友人らと推しの歌手のコンサートに行くから、前晩から身だしなみを整える算段だったらしい。一緒に行く友人らにもLINEで伝えたら、「麿」と返って来たそうで、それでさらに笑っている。  眉を剃りすぎるなんて、全体どうしてそんなことになるのか判然しないが、家の中が平和な心持ちがして、自分は安心しながら晩酌した。  県立カリフォルニア高等学校の生徒だった頃、何だか中村の顔に違和感があるのに気が付いた。どうも眉毛が変なので

男前と、知らない人

 独り暮らしにすっかり慣れた頃、テレビで吉田栄作が水を使わずにカレーを作ると話していた。水でなく牛乳を使うのだそうだ。  自分は別段栄作ファンではないけれど、男前がそう云うのだったらきっと美味いのだろうと考えた。そうして試してみることに決めた。  あいにく牛乳を切らしていたから、近くのスーパーで買って来た。ついでに樹氷という酒も買って来たが、それはオレンジジュースで割って飲むつもりだったのでカレーに関係ない。  どういうものが出来上がるのか見当がつかないまま牛乳でグツグツや

風呂と、こだわりカレー

 学生寮では休日に風呂を沸かしてくれなかったから、日曜祝日は夕方になると銭湯へ行った。  日曜の夕方はちびまる子ちゃんとサザエさんを観ながらのんびりしたかったが、この時間に風呂へ行っておかなければ、後になると億劫だし風呂屋もスーパー銭湯ではなく普通の風呂屋なのでそう遅くまでやっていない。だからいつも心を鬼にして、夕方に銭湯へ行った。  大体、早めに行って帰った後でサザエさんを観るか、あるいはちびまる子ちゃんを観てから行くかのどちらかで、自分はあんまり早く風呂に入ると落ち着かな

怪人雪達磨

 母方の墓所は広島の北の方で、中国山地だから冬には存外雪が降る。墓守をしている従叔父の話だと、島根県との分水嶺がすぐ近くなのだそうだ。  この従叔父は、自分が幼い頃頭に鍋を被せ、風呂敷のマントも着せて、「よし、行こう」と云って往来で三輪車を押してくれた。自分は随分喜び、一度家に戻ってからも「もう一回行こう」とせがんで、再度押してもらった。都合三回ばかりそうして繰り返したそうだ。  その話を後で母から聞いた時、そういうことがあったとは覚えていたが、回数までは記憶になかったから、

新・車窓から(3) 〜実在する駅〜

 とっくに昼を過ぎていたので上郡駅で何か食べるつもりでいたが、下りてみると売店すらなかった。  小さな田舎駅で、自分たちの他にお客はいない。これなら外出させてくれるだろうと思い、改札でこの近くにコンビニはありますかと駅員に訊いた。 「コンビニはないですねぇ」 「食べる物を売ってるような店は?」 「それなら、あそこのドラッグストアでみなさん買われてます」  少しばかり離れた所にチェーンのドラッグストアが一軒あるのが見える。  元々すぐ近くにコンビニがあるつもりでいたから、それに

新・車窓から(2) 〜ダッシュと異世界〜

 名古屋を出発すると、次は大垣で乗り換えである。  昔一人で鈍行帰省した時は、ホームの反対側にもう列車が止まっていて、こちらのドアが開くとみんな一斉に駆け出して席を取った。きっと今回もそうなのだろうと思い、着く前に娘にそっと教えておいた。 「次の駅で乗り換えるけど、走らないと席が取れないから、手をつないでしっかりついて来なさい」  娘はまた真面目な顔をして頷いた。それから、履いている靴の模様を指で押した。そうすると速く走れるのだと、幼稚園で友達に教わったそうだ。運動会の徒競走

新・車窓から(1)

 娘がまだ幼稚園に通っていた頃、夏休みに随分祖父母に会いたがったので急に帰省した。  当時は帰省に新幹線を使っていたのだけれど、この時は予定してなかったから切符を買っていない。帰省シーズンに今日の今日だから空いた席などないし、自由席では甚だ心許ない。仕方がないから鈍行で帰ることにした。  よほど時間がかかるが大丈夫かと娘に確認したら、深刻そうな顔をして深く頷く。 「今から出て、着くのは夜になるけど大丈夫か?」 「大丈夫」 「途中で嫌になっても、帰って来れないぞ?」 「嫌になら