2022年の日記集:「続ける」のは正しいのか
【2月6日】
「必要なくなること」が最終地点だな、と思っている。
この資本主義時代に、馬鹿なことを言っていると自覚はしているのだけれど。
でも、"無理に"生き残ったり、続いていくことって本当に良いことなんだろうか?
極端な例だけれど、コンプレックスを刺激してまで購買意欲を促進するようなことが、あまり好きではない。いや、嫌悪していると断言したい。
そこまでいかなくとも「来てください」とはお店でもSNSでも言わないようにしている。来たい人が、来たい時にだけ来てくれたらいい。
お願いした瞬間に、お客さんと店員としての関係が、対等ではなくなる気がする。
kenohiだって、いつか必要なくなる時期が来るのかもしれない。
もっと、日常にふさわしいお店が沢山できたり、そもそもみんな自宅や職場での日常がゆたかになって、わざわざお店に行かなくても満たされる世界になったらいいと心から思う。一人の時間が必要なくなる、あるいは、一人の時間や空間を自分で作ることができる状態。
そういう時に、無理に続けなくてもいいと思うのだ。
自動車ができて、移動手段としての馬車がなくなったように。
...
「kenohiが無くなったら困る!」と言っていただくことが時折ある。
嬉しさと同時に少し怖かったりする。
私が過去に経験しているからというのもあるだろう。
鬱や不眠だったり、そこはかとない生活の不安だったり、そういう相談を聞くこともある。
専門家ではないから、ただただ聞く。
アドバイスはあんまりできない、というかしない方がいいと思っている。
ただ、相手の立場を想像して選択肢を考えてみる。 押しつけはしたくない、決めるのは相手だ。
相談者の一人目に私を選んでくださることは本当に嬉しい。
日常の拠り所、ルーティーン(習慣)の仲間に入れてくれることも嬉しい。
けれど、頼れる人や場所が沢山あったらいいなと思う。
よく聞く言葉だけれど、依存先が沢山あるということが、自立という意味ではきっと良いのだ。
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友人にしても、ある時期だけ頻繁に連絡をもらったり会ったりして、SNSに元気な投稿がされる頃にはパッタリ連絡が来なくなったりすることがある。
正直に言えばちょっぴり寂しくはあるけれど、良かったなあと思う。
「kenohiがある(私がいる)から辛いことがあっても大丈夫」
と思ってしまうくらいなら、辛いこと自体がなくなって私やkenohiが必要なくなる方がいい。
そうなったらまた、私は私で楽しいことを考えるよ。
その時の自分が好きなこと、世の中に問うてみたいこと、必要だと思うものを。
必要とされるために、必死にならなくていい。
そのままで、ありたいようにあっていいのだ。
P.S. コンセプトを作るときにも「日常の逃げ場」にはなりたくないと思ったことを思い出した。初期版の画像を貼っておく。
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※この記事は、過去にメンバーシップ内の掲示板に投稿していたものを再編集したものです。
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