我が愛すべき「ゴミ」たち
落ち葉降り敷く、イチョウ並木。そろそろ季節もずれはじめたが……ふぜいがあるものである。
つい先だっても、落ちている葉を拾い上げて手持ちの文庫本に挟み込んでいる人を見かけた。
場所にもよるだろうが、落ち葉に彩られた街並みは、なかなかの写真スポットと言えそうである。
が、ワサワサと積もる一方の落ち葉は、その後どうなるのか?
季節のふぜいと通り過ぎる人はいいにして……いずれ、誰かが掃除をする必要があるだろう。マンションの清掃人といった所だろうか。
大きなゴミ袋が一杯になっても、次々落ちてくる葉に、ウンザリ顔の人もよく見かける。
彼叉は彼女にとっては、落ち葉は決してふぜいを醸す仕掛けではなく、単なる「ゴミ」に違いない。
見る人に依って、感じ方は真逆になってしまうのだ。
そういえば、かって農家で、「落ち葉」のことを「ゴミ」と呼んでいたらしい。
確かに、農業に携わっている人にとっては、ふぜい所の話ではない。栽培の邪魔をする、単なる「ゴミ」なのだろう。
もちろん、一般の「ゴミ」の中には、見方によって価値の分かれる不用品といったものから、誰が見ても、利用価値のないものまで様々のはず。
以前、ホテルでバイトしていた時、ゴミとして捨てられていたベルトを、ちゃっかり作業ズボン用に活用したこともあった。
反面、海老やカニなどの食い残しなどは、すぐに悪臭が立ち、廊下にまでニオイが充満して、とっとと処分したいと苛立ったこともある。
早朝見かける、収集日のゴミ袋の中に死んだネズミの顔が浮き出ているのを一度目にしたことがあって、ちょっと震えが来た記憶がある。
ふと、胎児などが捨てられている様を連想してしまったのだ。
確かに、捨てられているゴミも多種多様で……まだ使えそうな鍋やフライパンが捨ててある時もある。瞥見する限り、我が家のポンコツよりはかなり使えそうでもあった。
「ゴミ」をジックリと見て歩くことも、案外、どこぞの博物館での見学より勉強になりそうである。
思えば、我が心の師である安部公房は、外国に行った折り、どこか見学したい所はあるかと訊ねられ……「ゴミ捨て場」と答えて、案内役を困らせたという話を聞いたことがあった。
さすが公房である。国家が自慢したい文明の華やかさより、……たぶん、いかなる国家に於ても隠蔽したいはずの「ゴミ捨て場」に、現代社会り本質を見たのだろう。
そう言えば、アニメで小さな女の子……なんの魔法の能力もない、女の子がゴミを漁って旅をするという話があった。作品としてはちょっとガッカリではあったが……ゴミ捨て場を見付けると、嬉々として喜ぶ様はなんとも新鮮であった。
何が本当の意味で必要なのか? 何が本当の意味で無用なのか?
案外、闇から闇へと葬られてゆく「ゴミ」の中にこそ、答があるかも知れないのだ。
それでも、ふと不安にかられる……捨てられた大きなゴミ袋の中に……自分の死体が詰め込まれている様を想像して……