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人生とはフィクションである(再掲)
「実人生」なる、御もっともな言葉がある。一点の曇りだにない、正確無比な歴史のごとく、個人がそれまで辿ってきた人生街道。
そんなものが、あるわけがない。
例えば、何十人もの登場人物を教えてもらったからといって、それだけでは、いかなる物語も類推することは出来ない。人間同士の、複雑な社会的、あるいは心理的絡み合いなくしては物語は動かない。
人生とは、かくも複雑な人間関係を背負い込んで歩き続けてきた過程。
かく定義したからといって、嘘偽りのない人生を縷々述べることなど、果たして出来るものなのだろうか?
結論から言っておこう。人生には真理も真実も存在しないということだ。
そう。人生とはすなわちフィクションである。
子供時代、かくかくしかじかの経験をして、それがその後の人生に云々……。
尤もらしい言い草ではあるが、誰がそれを保証してくれるのだろうか?
第三者を同行し、タイムマシンにでも乗って検証する以外に術はないのだ。要するに……俺はかくかくしかじかの経験をしてきたといっても、それは当人の出任せとなんら代わりはない。
経験というものを物的接触と精神的軋轢の複合だとするなら、そこから立ち上がる心証にしても、確たるものは定立のしようもなく、意識的か無意識的かは別に、夥しい脚色によってでっちあげられたフィクションにほかならない。
極端な場合には、幼年期に読んだり聞いたりした、自らとはなんら関係のない出来事ですら、ごく僅かな生活上の共通点を以て、知らず自分の人生に組み込まれることもあるだろう。
振り返る自分の人生など、登場人物こそ固定されている可能性は強いが、その関係性は曖昧であり、直線のごとくに「今」の人生には結びついてはいないはずである。
そう。我々は、フィクションの世界からやってきたのだ!
「夢の住人」と言ってもいいかも知れない。疑いようもない。我々は少なからず「精神病者」なのだ。病が深刻になれば、依って立つ地盤すら危うくなる。我々は、ある意味「治療」しながらでないと生きられない宿命を担っているのかも知れない。
一般に「精神病」の治療といえば、専門医との腹蔵なき対話が欠かせない。
しかし、日常に特別の不利益を感じない軽い症状の場合には、「書く」という行為を以て、己の過去、無意識の蠢動を追体験する道もあるだろう。
過去へ過去へと遡ることは、決して「真実」を探り当てることではない。どのみちフィクションで重層化された意識に「真実」を探ろうなどとは、お化け屋敷で本物のお化けを探すようなものなのだ。
深層への旅とは、すなわちフィクションの人生を、子供に戻って追体験することではないのか。
実際の医療現場に於ても、「真実」の探求など全く無意味というのが定説なのだ。
病の症状さえ消えるのなら、「真実」などどうでもいいのだろう。
多少とも症状が薄れかけたのなら、我々は落ち着いている暇もなく、未来という、もう一つのフィクション目指して歩んでゆくことになる。
たぶん、それが人生なのだろう……
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