自由意思とは「無知」のことである
なんの予備知識もない子供の頃……眠れぬ夜など、僕はよく不可解な空想に浸ることが好きであった。
確かに、幽霊とか魔法とか、いかにもガキじみたテーマも多かったが、案外、今に至っても解決出来そうにない難問に悩まされたことも多い。
そう、無限についてなんかは、かなり考えること事態が面白かったものだ。宇宙の果ては存在するのか? 宇宙に行き止まりの壁があるとしても、その壁を突き破った先には何があるのか?
結局、二枚の鏡を向かい合わせに並べ、そこにリンゴを置いてみる。実際は、無限を確認は出来なかったものの……いっそ目を閉じれば、向かい合わせた鏡の向こうには無限箇のリンゴが存在するだろう……などと考えたものだ。
そして、今でも覚えているのが、自由意思の問題である。もとよりスピノザなんか知る以前の話である。
夏休みの宿題はきちんとやれ。先生からも親からも、きつく言われたものだ。
もとより、それを実行するのは本人なのだから、初めにテキパキと片づけることも、休みも終板になって慌てるのも自由、そう、自由意思のはずである。
サボろうが、遊ぼうが……俺の勝手さ!
当然、誰もがそう思うだろう。僕もそうだった。
しかし、取った行動は一つでしかないのだ。僕の場合で言えば、夏休みも終わりに近づいてから、慌てて絵日記を遡って付けるのていである。
かくサボったのは、果たして僕の意思だったのだろうか?
僕は親に詰られた時、しどろもどろではあったが……「自由意思」など存在しないのだ! ……と言いたかったらしい。
例えば、道を歩いていて、次に右に曲がるか、左に曲がるかは、自分の意思で決められるはずだが……実際には、どちらかに曲がることになる。考えようによっては、初めから一つの運命として、右なら右、左なら左に曲がるよう宿命付けられていたのではないのか?
自由にどちらにでも曲がれたはずだ、と考えるのは……すでにどちらかに曲がり終えてからの後追いに過ぎないのではないか?
要するに、「自由意思」というのは、すでに意思の力ではどうしようもない地点に至って、初めて存在する空しい空想……いっそ「無知」ではないのか?
たぶん、そんなコトが言いたかったのだろう。
案外、今に至っても……はっきりとした答を出してはいないのだ。
だからと言って、……どうせ人生など、生まれてから死ぬまで、一つの自然的必然として決められている……と、考えるとやけに空しくなる。
もしそうだとするならば、ナチスによるホロコーストも、広島、長崎の原爆も、歴史的必然になってしまうのか?
歴史に学ぶということは、無意味なのか?
そんなバカな話など、断じて認めるわけにはゆかない!
中には、全部決まっているなら、何もしたくない……と結論付ける人もいるだろう。ただし、それも必然だと言われたら、何をか言わんや、である。
だからこそ、最近、僕はこう考えている。人間にとっての本当の「知」とは「無知」のことではないのかと……