ある奇妙な感想
奇妙な感想を抱くことがある。哲学書だと言われているものを読んで、「あ、これ、社会学者が書いた本だ。」という感想を抱くことがある。
この感想が奇妙なのは「こんなん哲学書じゃない。」でもなく、「こいつは哲学者じゃない。」でもなく、「これは社会学者が書いた本だ。」となっているということである。前二つならまあ、そう思うことがあること、そう思うことによって自分(たち)にとっての哲学を明らかにしようとすること、それらはなんとなくわかるだろう。少なくとも私はわかる。けれども、「これは社会学者が書いた本だ。」はなんだか掴めない。
このわからなさを分解していく、前に一つだけ、いや、二つだけ、弁明というか、そういうものをしておこう。まず一つ、正直ここでの「社会学者」にはネガティブな意味が含まれている。しかし、それは私が個人的にネガティブに思っているだけで、明らかにしたいのはむしろそのネガティブに思っているのがなぜなのか、ということである。もう一つ、正直私は誰かを尊敬したことがないが、唯一その可能性があったと思うのは大学院で出会った社会学の先生である。私はその先生を非常にシャープで、そのうえ優しいと思った。そしてそれは素晴らしいことだと思った。正直めちゃくちゃ関わりがあったわけではないからそれが良くも悪くも影響して尊敬するには至らなかったが、その可能性自体は感じた。(こんな注釈はどうでもいいと思うのだが、凄いと思ったり、良いと思ったり、そういうこと自体は多いと思う。私は。ただ、それが「尊敬」までいくかとか、「尊敬」なのかとか、そんなことを考えるとよくわからなくなって、「尊敬した」と言い切れる人がいないということをここでは言おうとしている。そして、そんな私でも「尊敬」の可能性を感じたのがその社会学の先生だったというわけである。)このことからスタートしていることを皆さんにはわかっていてほしい。では分解しよう。
「これは社会学者が書いた本だ。」というのはまず、筆者/本という分割を導入することによって可能になる。つまり、社会学者でありながら哲学書と呼ばれるものを書くことは可能である、ということによって可能になる。次に、この筆者/本という分割は「書く」ということによってなされていると考えられる。「書く」が筆者と本を分割していると考えられる。それがなければ、そもそもこの分割は不可能なのである。このことを強調するとすれば、「話す」では話者と話していることは分割されないのである。このことをそもそも「語る」こと自体が「場」を想定し、その「場」がリアリティを持っていなくてはならないということ、さらにはリアリティとはそもそもなんなのかということに繋げていってもいいが、正直準備がないし、やる気もないので今回は置いておこう。
ここで考えたいのは「これは社会学者が書いた本だ。」という感想の奇妙さである。そしてここまで、筆者/本という「書く」を強調することによって可能になる分割が導入されている、という奇妙さが発見された。しかし、これは本当に奇妙なことなのだろうか。というか、本はそもそもそういうものであるし、筆者が一人の個人になるか否かは別にすれば、ここでの構造自体はいつでも変わらない。し、社会学的な仕方をする人は(私が知る限り)ずっとそうである。だから、考えるべきは「社会学的な仕方」をなぜ「哲学的ではない仕方」であると言わないのかということである。
「これは社会学者が書いた本だ。」というのは「これは(哲学者ではなく)社会学者が書いた本だ。」ということである。少なくとも私にとっては。なぜなら、私は哲学書と呼ばれる本しかほとんど読まないからである。いまは「断哲」ということをしていて、たまたま読んでいないが、それ以外のとき、特に何も決めずに本を読んでいるときは哲学書と呼ばれる本しかほとんど読まないのである。だから、「あれ、これ、哲学書だと思ったけど違うわ。」みたいになって、それが「これは社会学者が書いた本だ。」に変換されているのである。そうか、変換か。
すごく単純な結論が出てしまった気がする。哲学書は哲学書と呼ばれるが、社会学書という呼び方はない。だから私はわざわざそういう変換をしているのかもしれない。ただ、そうだとしても、なぜ社会学書がないのかは謎であろう。ただ、少しだけ別の視点から考えよう。なんとなくこの謎を追いかけるのは効率が悪いように思われるからである。なぜそう思うのかはまだわからないが、私は私の感覚を信じる。
「あれ、これ、哲学書だと思ったけど違うわ。」となったとき、私はなぜ「こんなん哲学書じゃない。」でも「こいつは哲学者じゃない。」でもなく「これは社会学者が書いた本だ。」に変換するのか。上で私はそういうことを問うていた。ことになった。ことにしよう。私が「これは社会学者が書いた本だ。」に対比しているのは「こんなん哲学書じゃない。」と「こいつは哲学者じゃない。」なのである。はじめから。
うーん、なんと考えようとしたが行き詰まってしまった。確実に「これは社会学者が書いた本だ。」という感想はあるのに、私のなかにあるのに、それがなんなのかがよくわからない。
「これは社会学者が書いた本だ。」が何を意味しているかと言えば、それは、簡潔に言えば、「議論の整理が適切すぎる。」みたいな、そんな感じのことだと思う。なんというか、「煩悶の痕跡がない」みたいなことがここでは言われている。いや、精確に言うなら、「煩悶しようと思えばできる、みたいな感じがない」みたいなことがここでは言われている。ああ、なるほど。筆者と本じゃなくて、本と私、なのか。はじめから、そうか、間違っていたのか。というか、哲学はそういうもので、社会学はそういうものではないのか、そこまでいかなくちゃあならなかったのか。残念。がっくし。
お腹がすいたのでここからは皆さんが、元気なら考えてください。弁明を最後に置いておくとすれば、私は「非哲学的」を「社会学的」と捉え直すことによって、それをなんとか受容していたんだ、みたいなことを思っています。ちなみにもう少し大きな視野を持てば、私は「哲学/非哲学」を「哲学/社会学」に変換するだけでなく、「哲学/非哲学」に「社会学/心理学」を重ねるみたいなことをしていて、たぶんしていて、そのことも考えてみたかったのですがお腹がすいたので今日はここまで。