短編恋愛小説|フラストレーション|#2
◇
ー幼少期のあの記憶はいつだって僕を苦しめる。
「ただいまー」勢いよく玄関のドアを開けると、むわっとカップヌードルのシーフードの匂いが漂ってきた。
そのままリビングまでゆっくり歩くと、こちらの返事には見向きもせず母さんはソファーの上で横になりながら、ワイドショーを見ている。視点が定まらないその目には正気が感じられない。ある芸能人が不倫したとかコメンテーターたちの偉そうな意見が聞こえてきた。
「この人またしとるわ、懲りへんなぁ」母さんがぶつぶつ呟いている。 そのテレビの向こう側には母さんが本当に知りたいことはあるのだろうか。それは目の前の僕よりも大切なものなのだろうか。
ねぇ、母さん、答えて? 僕は心の中で呟いた。
「あぁ、怜、帰ってきとったん、声かけてよ」そう言って前髪を掻き上げながら母さんがソファーから起き上がる。それでも母さんの視点は定まらない。コバエでもいるのだろうか、母さんの目が僕の頭上の、右に行ったり左に行ったりと泳いでいる。
テーブルの上には、スナック菓子の開いた袋、カップラーメンの蓋がついたまま雑に放置されていた。
「見てこれ、今日授業の工作でさ、」
「ごめん、お母さん疲れてるねん、後にしてくれへん」
「でも、これ先生がお母さんにプレゼントしようって」
その瞬間、母さんの目がカッと見開らいた。きたな、と思った。この後がどうなるかは容易く想像できては体が強ばる。ドクドクドクッ脈が早くなり、体を縮こめる。その数秒後、罵声が室内中に響き渡った。何を言っているかは分からない、理解もしたくない。車の衝突音のような心臓をえぐられる声が何度も狭い部屋で反響し続けた。 一度スイッチが入るともう手につけられない。あとは祈りながら待つのみだ。
下唇を噛みながら、早く、早くこの時間が終わりますようにと、僕の好きな優しい母さんに戻りますようにと願う。ここまで来たらもうへっちゃらさ、いつも通りに耐えればいい。いつも通りに…もう慣れたじゃないか。
換気をしない空気が籠もったこの部屋は乾燥が激しいのか唇は常にカサカサしている。噛み続けた下唇から血が出ているのだろうか、口の中が鉄の味で充満する。この味は何度経験しても慣れなくて、不味い。
あれからどれ位の時間が経ったのだろう。無心にしていた心に再び息を吹き込んだ時、工作は床にバラバラになっていた。それは母さんの何処に向けたらいいかわからない、怒りの形だった。
工作をバラバラにして立ちすくんでいた母さんが、僕の方を見て、肩を震わせて嗚咽を抑え込こみながらこちらに向かってくる。 あぁ、殴られると思い、しゃがみ込んでは目をギュッと瞑り両手でせめて頭を守る。
その瞬間、小刻みに震えて冷たくなった体が、母さんの腕にふわっと包まれ温かくなった。
母さんが何か言っているけれど、ノイズがかかって聞き取れない。ラジオのチャンネルを合わすかのように自分の耳をチューニングした。
「ごめんね、ごめんね、怜。母さんのこと許して、怜のこと本当は愛してるの」
「母さんホンマは変わりたい、ホンマは変わりたい、こんな自分嫌や、嫌や…」
涙を流しながらギュッと僕のことを抱きしめ続けては、母さんの涙が僕の頬まで伝ってくる。 口の中は鉄の味と、涙のしょっぱさが入り混りなんとも言えない味がした。それは、生と死の狭間で、もがき続けた者だけが経験する味だった。
それでも、その母さんの温もりは、僕の中で幸福に触れる瞬間でもあった。 あぁ、良かった。あの時間から解放される。やっと元の優しい母さんに戻ってくれた。
「怜、夜ご飯何が食べたい?」 抱きしめては僕の頭を撫でながら母さんが尋ねる。
「んー、カレーでいいよ。作り置きできて、明日楽でしょ?」
「それいつも作ってるやん」
「あ、それか、明日のおやつにカップケーキ作ってよ」
「ええよ。沢山作って待ってるな」
「やった。バナナ味か、チョコチップどっちにしよう」
「ふふ、両方作ったる」
僕は母さんが作るカップケーキが大好きだった。
◇
「少し、休憩しよっか」
透子さんがその言葉を発した瞬間、口角がひきつるのが薄暗い部屋でもわかった。ベッドのシーツを豪快に奪い取り自分の体にランダムに巻きつけては、床に落ちている下着を拾い上げてバスルームに向かった。
役立たずである僕がベッドの上に仰向けの状態で全裸で取り残される。
「ちょっ、さすがに寒いって」
その彼女の肩を落とした後ろ姿は、新橋にいる仕事終わりのサラリーマンの後ろ姿のように哀愁が漂っていた。いや、自尊心を傷つけられた少しの怒りだろうか。
こんな時にはどんな声をかけたら彼女の正解なのだろう?足りない頭の中でシャボン玉のように無数の言葉を生む出すけれど、口から発することはなく頭の中でぱちんと消え続けた。 結局はどんな声をかけたとしても、最後までできなければ、何を言っても不正解な気がしたからだ。
それでも包まったシーツから覗いて見える、白くて華奢な肩を眺めては背後から抱きしめたいと思ったけれど、ただのセフレの僕にはそんな権利も勇気もなくて、何も出来ずに視線は天井に逸らす。
「この天井、本当は白いんだな」と独り言ちた。シミや煙草の煙によって黄ばみのかかった天井にわずかに残る白いところを探しながら、ゴムをばちんっと勢いよく外した。
「いって、勢いよくやりすぎた」役割を果たさなかった物をベッドの隣のゴミ箱に捨てる。
「ごめんね、透子さん」下着を履きながらバスルームに向かって声をかけた。
「でた。こういう時さ、ごめんって言われるのが1番腹たつのよねー。なんとかギリギリ保っていたプライドが追い打ちをかけられては、全力で、しかも拳で、たった今破壊されたわ。出来なくて相手を傷つけてしまった俺に酔いしれてない?」
その反響する位に大きく聞こえる声に、条件反射で再びごめんと言いそうになるけれど、言葉を飲み込んではとりあえず愛想笑いする。 彼女の顔は見えないが、きっと眉間にしわを寄せて目を見開いているだろうなと、想像した。さらには、眉間の皺の跡が消えなくてファンデーションで足しているかもしれない。
それと同時に、バスルームから聞こえる声が他の部屋に漏れていないか、ほんの少し心配した。ラブホだから防音対策されてるか、いや、所詮激安ラブホだからな。こんな時でも、自分のことを考える僕はやっぱり格好悪くて、透子さんに気の利いた言葉なんてかけれる筈がなかった。
黒のロングワンピースを着た透子さんがバススームから出てきてはケトルにお水を入れては沸かしている。やっぱり彼女は黒がよく似合う。ワンピースから覗いて見える、白くて透明感のある肌をより引き立たせては、それを見た人の心を魅了する。きっと自分が何が似合うか、見せ方も含めて全て知り尽くしているのだろう。
「でも、珍しいね、なんかあったの?
ん、なんかこれ、中々切れないんだけど」
そう言いながら透子さんがUCCのインスタントの小袋を歯で噛みちぎり、勢いが良すぎたのか粉を床に散らせて、わずかに残った粉をコーヒーカップに入れる。その一連の行動に少し戸惑いながらも、そういえばこの人はバスローブを畳まず脱ぎ捨てるようなガサツな人だったと思い出しては納得した。
「いや、今日久しぶりに母親の夢みてさ、うちの母親半端なくヒステリックだったから、思い出すと性欲が落ちるんだよね」
僕は母親の夢を見ると過去がフラッシュバックしては勃起不全になっていた。それも結構な頻度でおきるから、女性と長期で付き合う自信がないのもそんな理由からだった。
母親とは数年単位で自分からは連絡とっていないけれど、一年に一度、一方的に送られてくる讃岐うどんに添えられてる手紙には、過去の僕に対して行った事への謝罪が書かれていた。 そして現在は香川の市営住宅で暮らしながら、細々とパートもしていて昔よりは心中穏やかに暮らしているらしい。僕は香川のFランの大学を一年で中退しては逃げるように東京に出てきた。それと同時に父と母は離婚した。
しばらくの沈黙の後、「それって、暴力はあったの?」と言いながら透子さんがコーヒーカップをベッドの目の前にある小さな丸テーブルに2つ置いて、僕の隣に腰掛けた。ベッドが少し揺れてはふわっと爽やかな柑橘系の匂いが広がる。
僕はもはや白湯のような、とんでもなく薄いアメリカンコーヒーを啜っては口を開く。
「ギリなかった」
「そう。まぁ、いかなる理由があっても、何かしらの怒りの矛先を子供に向けるのは間違っているよね」
「だけど、そう思っていても、私もたまにあるのよねー。自分で自分が恐くなる位に、信じられないくらいに。 母親である私が、欲しいものが手に入らなくて泣きわめく子供のようになってしまって、娘を弱いものいじめしているような時が。」
透子さんが、僕よりは明らかに濃いコーヒーを口につけながら話し続ける。
「そういえば、怜くんって大卒だったけ?」
「いや、中退したから高卒」
「でも怜くんは優しい人だと思うけどな。そんな過去があってもクズなのは置いといて、まともに生きているじゃない。私が怜くんの立場だったらグレて義務教育すらまともに行ってないかも」
「まともって、クズに加えてニートだけどな」
「ふふ、そうだった。撤回するわ」
透子さんがくしゃっと笑って、アーモンド形のつぶらな瞳がほぼ見えなくなった。さっきの緊迫した空気から一変して、心地よい空気が漂よう。
この時の僕の気持ちは、ふわふわ宙に浮いていて、くすぐったかった。 あの時に下唇を何度も噛み続けては、傷口が少し膨れ上がるように変形してしまった僕の下唇を、そっと透子さんに撫でられたような、これまでに経験したことのない不思議な感覚に陥った。
それは、過去のやるせなさや怒りを原動力に誰かに欲情したり、激しいセックスをする時とは全く正反対な、もはやセックスなんてどうでも良くなるくらいに、穏やかな気持ちが僕の心に初めて芽生えたのだった。
心が満たされる、つまり幸福というのは、きっとこういうことを言うのなだろうな、と思った。 だけど、それまで女の子には勿論、友達にさえ自分の家族の話をしたことがなかった僕にとって、この話題はとにかくこそばゆくて話を変えたい一心だった。
「話が変わるけど、透子さんって旦那とレスじゃないのに、なんでアプリ登録したの?」
#3へ続く。(3月更新)