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切り離さず、抱えて生きていく 『百の太陽/百の鏡』新井卓
『百の太陽/百の鏡』はダゲレオタイプと呼ばれる写真技法を用いた作品を発表されている、アーティストの新井卓さんのエッセイ集だ。
特に好きだったエッセイの一つが「維管束」で、その中にこんな一節がある。
花はこうして一片の写真のなかに生きつづけるが、そのイメージもいつの日か失われるだろう。未来とはわたしたちがもう生きていない程度に先のことなのに、人の欲望はその動かしがたい事実を拒絶する。写真はそのようなわたしたちが造りあげた人工の花にすぎない。
宿根から垂直に立ち上がる維管束たち。そのいみじい細胞のひとつひとつを満たす、吸収と蒸散の果てしない循環のうちに、やがてわたしたちの季節は過ぎ、人知れず、山野に花は匂いたつ。
百合の花の作品の隣に据えられていたこの一節を読んで、驚きを覚えた。ダゲレオタイプの写真が言葉や物語に触れたとたん、空気や匂いがまるでその場にいるかのように感じられるようになった一方で、暗く光る百合の花が突然とても偉大で恐ろしいもののように──この世のものではない──いかにも妖しいモノに思えたのだ。モノを見ることを知らない私は、このエッセイを通じて言葉とモノの切れない関係に初めて触れた気がした。
ダゲレオタイプは視覚情報の記録であるばかりではなく、手触りやにおいといった身体的な記憶を誘発する「記憶装置となる」。
言葉の手前でただ純粋に見る、ということはほとんど不可能になる。
写真家たちが、意味と言葉の前方へ投げ出すようにして、見ること/見えることそのものにたどり着こうとする人々である。
そうか、写真には見ること/見えることのできない厚みがあるのだ、と思った。
写真のことは何も知らないわたしでさえ、このダゲレオタイプという技法が途方もない時間と手間をかけて行われる、ということは分かる。
ダゲレオタイプとは、完全な鏡面に磨き上げた銀板の表面をヨウ素でコーティングし、カメラに装着して露光したのち水銀蒸気で現像することにより、銀板に直接画像を記録する技法のことだ(カメラやレンズの名称ではない)。画像の明るい部分には不透明な銀水銀化合物がレリーフ状に分布し、暗い部分は鏡面のまま残る。銀板は光を通さないのでプリントをつくることはできず、ただ一枚の銀板が複製不可能な写真として残る。最初期の技法でありながらその画像は驚くほど鮮明で、角度によってわずかに色調がうつろう宝石のような輝きを放つダゲレオタイプには、今も色褪せない美しさがある。
その作業は時間を「切り取る」のではなく、準備をする、露光する、現像するといった断続的な時間を、そしてまわりの空間もをまるで「集めて」いくように感じられるのだ。
写真は一瞬を「切り取るもの」だと思っていたけれど、今を切り離さず抱えていくためのモノになれるのかもしれない。写真の背景に横たわる著者の言葉たちは繊細でいて強く、たくさんのものが集まった分だけ傷だらけで優しい、と感じた。
それにしても、一体この本はどんな本なんだ…と読み初めに不思議な気持ちになった、民俗学者である赤坂憲雄さんの帯文。
おまえはだれか、と問いかけるな。
風景と来歴のあわい、傷のほとりを流されてゆくものに。
痛みこそ、自由への道行きか。
――赤坂憲雄
読み終わった後にもう一度眺めて「ああ!」と納得した。そうか、これはきっと著者に向けられた言葉だったんだ…。力強い断定形に、読者のわたしも背筋を伸ばして、著者の言葉を受け取れるような自分になりたいと思った。
わたしのスマートフォンの写真も少しでも柔らかくしなやかなモノになれないだろうか、手元の四角い機械をながめてふと思う。ただ切り取っているだけになっていないか。まずはささやかでも、言葉を探したい。