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「完璧」の幻想から抜け出そう「中ぐらいであれ!――完全主義の克服法」『いやな気分よ、さようなら』第十四章

 十四章です。

 最近は調子があまりよくなくて、なんとなくやる気が出ないです。違う作業もしていたことがあって、仕事が終わった後にやるとなるとけっこうめんどくさいので。

 初期はけっこうわかりやすくと思っていろいろやっていたけど、最近ちょっと手を抜いてるんじゃないの?と思ってる方もいるかもしれません。とはいえ、それほど閲覧数があるわけでもないのですが。もちろんそれもモチベーションの低下に……

 やめときましょう。でも今回はそんなのでもいいやっていう回。手を抜くというか、完璧を目指さない。中くらいで満足する、そういう回です。

中ぐらいであれ!

 今回のポイントはまさにこれです。

 うつをはじめとした心の病に苦しんでいるであろう人には、中くらいでいることをお薦めします。

 これって結構どこでも聞くことですよね。それができなくてこっちは困っているんだが……という人も少なくないと思います。僕もそうでした。現在はその兆候はあるものの以前よりだいぶ完璧主義から脱することができました。そんな自身の体験談とともに、この章の内容を紹介していこうと思います。

 中くらいであることを、ばかげたことと思う人もいると思います。だから一日でいいから中ぐらいでいるように努力してみてください。結果としておそらく二つのことが起こるでしょう

①中ぐらいでいることがうまくできない。
②それにもかかわらず自分のしたことに十分満足するだろう

ということです。もしかしたら中くらいな分普段以上に満足しているのかも?これからもその努力を続けられるなら、この満足は次第に大きくなり、喜びにかわるでしょう。

完全主義を克服し、本当の喜びの成果を得るのです

目の前に二つの道があるとします。

一つは、光り輝く栄光の「完璧の道」
もう一つは、少しくすんで地味な「中ぐらいの道」です。

 あなたはどちらを通りますか?おそらく完璧の道の方でしょう。しかしこの道は、実際にはない究極的な幻想の道なのです。

 このことは、二つの道の先にあるゴールの有無で説明できます。完璧の道にはゴールがありません。どれだけ完璧にしても、もっと完璧にできるからです。あなたが、職人だったりその事を楽しんでやっていたりしているなら別にいいのですが、すべてのことに完璧でいることなど決してできません。

 一方「中くらい」の道には妥協というゴールが存在します。実は「中くらい」も幻想ではあるのですが、こっちは役に立ちます。とはいえ、この妥協というのがまことにかっこ悪い印象です。だから格好だけでも完璧を目指すのですが、よく考えてみると、人生なんて妥協の連続のような気がします……

 僕の人生に妥協がなかったとしたら、もちろん今頃は佐々木希と結婚していましたし、マンションの多目的トイレは、必要な人のために開けていたはずだからです。

 話を戻しましょう。とはいえ、何をすればいいかわからないので、いくつか必要なことを挙げます。

完全主義の克服法


 完全主義を克服するのに必要なのは、「中くらい」であるという努力を続けていこうとするあなたの動機付けです。この動機付けには、完全主義であることの利益と不利益をダブルカラム法で表にしてみるとよいでしょう。おもったより完全主義が自分の役に立たないことがわかるはずです。


 作った表をつかって自分の利益についての仮説を確かめるためのテストをしてみます。完全主義を100%として、その80%、60%、40パーセントを目標にして活動してみるのです。あえて中くらいを目標にします。

 ちなみに僕はこの方法をやってみて、100%やっておけばよかったという思いをほとんどしませんでした。あるとすれば、抗うつ薬のせいで肥大気味になった前立腺のせいで起こる残尿を、トイレのときに完璧に出しておけばよかったというくらいです。

極論すると、

頑張っても頑張らなくても結局物事の結果ってそんな変わらない

っていうのが、僕の感想です。物事の結果が変わる要素は、頑張りにあるのではなく、そのことをいかに楽しんでできたかということに影響されると思います。頑張るとはつまり我慢で、我慢した結果がよくなるなどとは幻想ということです。

 まだ信じられないですか?まぁそりゃそうですよね。じゃあ続いて三つ目を見てみましょう。


 強迫的な完全主義者には、「反完全主義シート」を使うことをおススメします。これは↓のようなものです。

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 こうやって書き込んでみましょう。そうすればあなたの完全さと満足とに関係などないことがわかるはずです。


 完全主義を全く諦めてしまったとしたら、いったい何が起こるか考えてみましょう。一生懸命頑張ったときのみ完全になれることは本当に現実的でしょうか。そもそも完璧すぎて改善の余地がないものがこの世にあるでしょうか?考えてみましょう。


 完全主義を克服するには、恐怖と対決することです。完全主義の裏にはいつも恐怖が隠れています。一生懸命やらないと認められないとか人に不真面目だと思われるなど、さまざまな恐怖です。まずはこの恐怖と対決しなければなりません。完全主義はこの恐怖からあなたを一時的に守ってくれますが、守れば守るほどあとから払うツケは大きくなっていきます。

 この恐怖は、家を出た後に家の鍵を閉めたか、冷蔵庫の扉をちゃんと閉じたか、エアコンは切ったかなどを気にするというのもそうです。こういう人けっこう多いのではないのでしょうか。

 この手の恐怖は「反応予防」という方法で克服できるといわれています。やり方はとても簡単です。単に完全主義を否定し、恐怖と不快感に身をゆだねてみるのです。強情に我慢し通して、たとえどんなに混乱しそうになっても、気に留めないことです。そこで踏みとどまって、混乱が最大に達するのを許すのです。ピークを過ぎてしまえば、強迫性はそれが完全に消えてなくなるまでだんだんと減じていくでしょう。その時すでにあなたは強迫性に勝利しているのです。

 僕も部屋の鍵が気になる人間なので、これをよくやります。あれ、カギ閉めてきたっけ?とおもっても、決して家に戻って確認しないようにしています。結果として鍵がかかっていなかったことはありませんでした。それに、こんなボロアパートの鍵なんて、開けようと思えば、ちょっと知識のある素人にだって開けられてしまいますから。


 この方法は十章で紹介した矢印法です。

 ここから、認知の歪みを明らかにし、自分の中にある暗黙の仮定を明らかにできるはずです。

 恐怖から逃げるよりも、恐怖と対面してみましょう。「何を恐れているんだ?」「どんな悪いことが起きるっていうんだ?」と自問してみるのです。だいたい自分が恐れているほど怖いことになんてなりません。

 これは僕の例ですが、職場で指示されたことに関して、僕はおかしいとおもったり、嫌だとおもったことははっきり言うことにしています。僕以外の人は、明らかにおかしいと思っていることでも怖いから従っちゃうんですよね。そっちのが怖いです・・・。上の指示に従わなかった結果僕に起きたことは、

特に何もありませんでした。

なんだったら、僕が嫌ですといったことで、その件は今ではあったのか、なかったのか、くらいに忘れ去られました。ちなみに嫌だということを実際に言うと無理な仕事を押し付けられないし、自分ができることでも、めんどくさいなぁと言うようにしました。

 逆にこれを言ってから、手が空いたからなど理由をつけて、やってあげると結構感謝されます。

 嫌なことは嫌、めんどくさいことはめんどくさいということで、相手は、悪態をつかれてまでやってほしいかという、成果と嫌な気持ちとを天秤にかけるようになるので、なんでもホイホイ云うことを聞いてくれる都合のいい奴というのを脱することができるのです。

 仕事で大事なのはまじめやることではないと僕は思うことにしました。まじめにやることと、成果は無関係だからです。

 何をやろうが死にやしない。本にもそう書いてあります。


 プロセスの重視も完全主義を克服する方法の一つです。結果よりもプロセスに注目するのです。いつもと同じように生活していても、結果が変わることってよくあることです。結果というのは運も含めて、自身のコントロール下にないことがほとんどです。

 だからこそ、自身のコントロールできるプロセスは、きちんと何をするか決めてやる。そして、それをきちんと評価してあげるのです。

 他人の評価なんてものは、結局のところあてになりません。良い評価はさておき、どんなことでも、態度が気に入らないから始まって、ケチなんていくらでも付けられます。


 時間制限も完全主義を克服する方法の一つです。日常生活の一つ一つに時間制限を設けることで、生活に対するあなたの視点を変え、生活の流れに焦点をしぼってそれを楽しむことができるようになります。

 これは完全主義者ならではの、物事を先延ばしにする癖がある人に効果的だと思います。第五章でも触れてましたね。

 日常活動スケジュールとかぐずぐず主義克服シートとかはつかえそうですね。


 もしかして、ミスをすることを恐れていませんか?それが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありませんね?あなたが間違っても死にはしませんし、世界は何の変化もなく回っていきます。失敗をしない人間はいません。あなたがどれだけ頑張っても結局間違うときは間違います。

実は完全主義を克服する強力な方法に、

間違いの犯し方を学ぶ

というのがあります。どうすればできるでしょうか。完全主義や間違いを犯すことが非合理的で自己破壊的なのかを文章にしてみましょう。

間違えることは、なぜ大切か

私は間違うことが怖い。なぜなら、一つ間違うとすべてがだめになるという完全主義的見方で、あらゆるものを見てしまうから。小さな一つの間違いは、たぶん最終的に全部だめにすることはないのだ。

間違いをすることは、いいことなのだ――なぜなら、間違いをしたことで私は学ぶことができるのだから。誰も、間違わないでいることはできない。そして、どんな場合でも起こりえる以上、私たちはそれを受け入れて、それから学ぶべきだ。

間違いを認めることで、我々の行いも整えることができる。その結果、私たちはもっと楽しくなれるのだ――つまり、われわれがもっと幸せになり、ものごとからもっと良くなるように、間違いは作用するといえるのだ。

間違いをすることを恐れていたら、何もできない――何か間違いはしてしまうものだから、恐れていては、何も試みられない。間違いをしないように活動を限定すると、本当に自分自身をダメにしてしまう。たくさん間違うように努めれば、それだけ早く学べて結局はもっと幸せになれるのだ。

大部分の人は、我々が間違いをしたからと言って我々を嫌いになったりしない。皆、間違うのだから。それに、大抵の人は「完全な」人間が嫌いなものだ。

間違ったからといって、死ぬわけじゃない。

 こんなかんじでしょうか。変わるということには時間がかかるにしても、この方法は少なくとも正しい方向にスタートする助けになるはずです。あなたも書いてみませんか?書いたら毎日音読してみましょう。


 完全主義は粗探しが得意です。自分がやったことではなく、できていないことばかり見つけます。そりゃ気分が悪くなります。そういう人は、毎日正しくやろうとすることにカウンターを使ってその数を数えてみてください。カウント法ですね。ばかみたいと思うかもしれませんが、結果に驚きますよ。


完全主義者にはかならず全か無か思考がかかわっています。ダブルカラム法で全か無か思考の非合理さを合理的な反応に変えてみましょう。


実際に人に聞いてみるのも一つの方法です。僕はこの方法にはちょっと懐疑的です。うつの治療は一人のこともありますし、いつも誰かがそばにいるわけではないからです。不完全をさらけ出せる相手がいるということはそれだけで財産だと思いますしね。それにこれは人から拒絶されるという覚悟も必要なのでちょっとハードルも高そうですし、あまり詳しく書かないことにします。知りたかった本を読んでみてください。


あなたの人生で本当に幸せな時期に精神的に焦点を合わせてみることも一つの方法です。とはいえ、そんな時期なんてなかったという人もいると思うので、ここでは詳しく書きません。


貪欲技法」も完全主義を克服する一つの方法です。これは大きな一つの成功体験ではなく小さな成功体験を積み重ねようというものです。自分の要求水準を下げて、その代わり量を増やしてみるのです。そっちの方が楽しみや喜びが大きくなりませんか?


ラストです。人間は間違うという前提です。これを認めますか?認めるなら間違ったとき自分を責めようとするたびに

「私だって人間なんだから、間違いをするだろうと予想はしていたんだ。」

「こんな間違いをする私は人間的だ。」

と言い聞かせましょう。

間違えたら、そこから学べばいいのです。

以上14章でした。

 間違ってもいいや~とおもえるとすごく気持ちが楽になったことを今でも覚えています。それまでの僕は全くの完全主義でほんとにひどかった。でも頑張っても頑張らなくても、間違っても間違わなくても、人間てそんなになにかの影響ないんですよね。

だからなに?って言って今はとりあえず生きてます。だからって生きてることが楽しいわけではないのですけどね。生きるというのはつらいことだと思うし、毎日朝には死にたいと思っています。

そんなことにも関連する次回は、自殺についてです。

死にたいと思っている人はこうご期待。

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')