文化系女子から見た、令和における「体育会系」や「男社会」の生きづらさ
先日から働いている会社での出来事を通し、文化系人間から見た令和の時代における「自称体育会系」や「男社会」の生きづらさについて昨日からずっと考えている。
組織にいると「体育会系」や「男性社会で生きてきたんで」と言うタイプの人と文化系の私との視点の違いについて驚く事がしばしばある。
これまで私が遭遇した「体育会系・男性社会で生きてきた人」の思考パターン
私も40年間生きてきて、人との協働を重ねる中で遭遇した「体育会系・男性社会で生きてきた人」と自分との間で生じた誤解は何度かあって、具体的に挙げるとこんな感じ。
「文化系の私としては、相手に対して好きでも嫌いでもなく、特別何とも思ってないのに、相手からは「自分は嫌われている』と誤解される」というパターン。
しかも「嫌われている」というきっかけが、どうやら「YESマンじゃないこと」のようなのだ。
この事は私にとって結構驚きの出来事だった。
でもそう言われて改めて「自称体育会系」「男社会出身」の人たちの言動を観察したり、よくよく話を聞いてみると、どうやら「自称体育会系」や「男社会で生きてきた」人にとって、重要視される物は「話の内容」よりも「誰が言うか」「格下の人は自分の気持ちや考えや事情など、全てに蓋をして自己犠牲になる事が男らしさであり、正義」で、「誰」という序列は「男性であること」「年齢が年上」といった本人では変えられない条件だったりする。
マジか!
「体育会系・男性社会で生きてきた人」と文化系女子の私との間で歯車が狂う時のパターン
けれど「それが世の中の当たり前」という価値観の中で生きてきた「自称体育会系」の人達にとって、(女性や年下など、本人から見て格下の相手に対し)自分が何かを言った時に「分かりました!」「喜んで」以外の返事が返ってくることは想定外で衝撃的な事らしい。
一方で文化系で女子でもある私にとっては、「YES」と言える時もあれば言えない時もあるのは当たり前のことなので、「今は手が離せないので、こうして貰えればYESだと言える」など、「YES」以外の事を言う事も当然ある。そして、人としての尊厳は誰に対してもあると思っている一方、誰を尊敬するかは私の自由だと思っている。
一方相手はその衝撃的で理解不能な私の返事を理解するため、ひねり出した理由が「JenMey(私)は俺の事が嫌い」「俺の事を尊敬してない」ということのようだ。
一方私は、自分が「YES」「分かりました!!」「喜んで!!!」以外の返事をした事で、相手が「JenMey(私)から嫌われている」と思い、勝手に傷ついている事には1mmも気づいていない。
しかも私としては仕事上の相手とは、嫌いな相手でも最低限の礼儀として『出来る限り感じよく接するよう努力する』『出来るだけニュートラルな態度に努める』のが大人としての作法だと思うし、「価値観や見えている景色は立場やこれまでの生育歴などにより一人一人違うのは当然。なので方針や目標を共有する為に会話する事は必要」と思っている。なので言いなりにならない理由が、「嫌いだから」という結論に至ることに飛躍を感じ、「え!なんで?!どういう事?!」という衝撃がある。
でもまぁ、そんなお互いの理解不能な感覚は横に置いておいて「これまで自分が男社会で生きてきた」「自分は体育会系だから」と言う人とトラブった時、ある程度落ち着いた後で改めて相手にどうしてそういう行動に及んだのかを聞いてみると、大体こんな感じ。
俺は、あの子(JenMey(私))に嫌われている。→あいつ(JenMey(私))は生意気・あいつには本来女性が持っているはずの母性が無い、欠陥人間だ(だから何をしても許される)→反抗してくる前にあらかじめ潰しておこう・自分の力を見せつけて圧しておこう→その結果、パワハラ・仲間はずれ・情報を渡さない・嘘の噂を流す等の具体的な行動に移る。
文化系の私の感覚では完全に意味不明過ぎて「そんな感情的でマザコンで卑屈で前時代的な感覚で生きている大人が存在してるん?!」という感じ。
でも男社会で女性を自分の母親しか知らなければ、第三者の女性に当たり前のように母性や無償の愛を求め、その一方的な思い込みによる期待が裏切られて、嫌われていると思い込むという一連の流れも、まぁなんとか理解は出来る。
ただ、女子と一人としては、「たまったもんじゃねぇな!お前みたいな息子を産んだ記憶無いわ。めんどくさ!関わりたくない」というのが本音の中の本音。でもこれがまさに「価値観の違い」なのだと思う。
私から見た「自称体育会系・男性社会出身」に共通する価値観とは
あくまでも私としては、「相手が何を言っても「YES」と言い、言いなりになる」関係は、人としての対等さは無く、もはやお互いの間に信頼関係も人権もなく、仲間でもチームでもなくただの奴隷やん!と感じる。
そして100歩譲って学生の部活の中での関係性ならまだしも、大人になっても尚、「性別等自身で変えられない物に基づく序列に基づき、有無を言わさず言いなりの奴隷になる」という謎ルールを課して生きている事は苦しくないの?と素朴な疑問として思う。
好きとか嫌いとかそんな理由づけで片付けるのではなく、お互い「へぇ、あなたはそう思うのね」で、何かをしてもらったら、それは当然の事と捉えずにきちんと「ありがとう」と言う。そういう関係性の方がお互い生きやすいように私には思える。それって私が格下として見られる側の女性だからなのかな?
これから新天地で私は・・・
実際、これまでの会社でも女性の私が対応した事を「自分を低く見積もられた」と解釈し、「新人でも良いから男性に代われ!女性が対応した事について謝罪しろ!」と言われ、理不尽だと思いながら頭を下げ、謝罪した事は数え切れないほどある。そういうことは法律や不動産などの男性社会では珍しくなかった。そして謝罪を求める客は老若男女あらゆる人がいた。
どこに行っても男社会で育った体育会系は居る。
問題は、どうやって折り合いをつけるか。
私もこれまでの失敗を生かし、相手の価値観を否定したり傷つける事なく、でも当たり前のように私を奴隷のように解釈されるのも不満が溜まると思うので、上手に距離を取りながら、愛想良く過ごしていこうと思う。
令和のこの時代にいまだに残る、「男社会」「体育会系」で生きてきた人達の価値観に残り続ける謎ルール。
私の体育会系的体験
確かに私も中学校時代にバトミントン部だった時は、先輩の許可なく水を飲む事が許されなかった。それで私も周りも含めて下級生は、そういう日常を理不尽だと思いながらも、常に口の中の唾が完全に無く、慢性的な脱水症状を起こしていた。「苦しい」「水!水!」「部活してると時々めっちゃ頭が痛くなるよね」とか言いあいながら、終始筋トレに励んでいた。
だから、何も考えずに「YES」という関係性が全く分からないわけでもない。
けれど今、私がこの年齢になって当時を振り返ると、よくぞ死人が出なかったなぁと思うし、先輩が後輩に好き勝手な事をやる事が許される当時の部活のやり方は、生命の危険すらある、物事をきちんと判断出来る人が存在しない、かなり危うい状況だったと思う。(でもこれは特別なことではなく、多かれ少なかれ当時は多くの学校で似たような状況があったと思う)
理解はできる。でも私がそれに染まる義務はない。だから時間をかけて道を探ろう。
勿論、わたしから見ると非合理的で生きづらい謎ルールを課しているように見える「男社会」「体育会系社会」も、内側から見れば、きっとそれなりに温かみなり、何かしら良いこともあるのだろうとは思う。
だけどすごくざっくり言えば、通勤電車で出会う日本のオッサン達が総じて不機嫌な原因の一つは、大人になっても尚、この令和の時代になっても未だに多様性とは真逆の「非合理的な謎ルール」に縛られているからではないか?とも私は感じる。
これから私は新しい会社で、新しい人間関係を築く。
波風は起こさずに、でも奴隷にはならずに。
ストレスを発散しながら、上手に距離をとりつつ、
引き続き機嫌良くやっていこうと思う。
相手は「常に自分が正しく、自分以外が間違っている」というマウント思考の構えで対応してくる。その裏には自己肯定感の低さや不安を垣間見れる。私は理不尽だなと感じる。でもそれが相手の常識で、相手の中に交渉や歩み寄る選択肢は無いならば、従うしかあるまい。言いなりと謝罪の2種類で会話を完結させ、9時から18時までをどうにかしのぐ。
さぁ、ここで私は何を得ようか。
再び自分を押し殺す働き方をする事になるのなら、お金は期待できないにせよ、別の何かを得たと実感できる時間の使い方をしたい。
自分と向き合い、ここで働く目的を自分の中で改めて考え直そう。
YESマンで誰かにとってのサンドバッグ的役割を担う事を再び常態化させたら、私は13年勤めた会社を辞めた意味がなくなる。寧ろ給料が下がって損しただけ。そうなる事だけは避けたい。
一人一人、学ぶ機会がある。それを邪魔せず見守る。解決するのは時間。
今はまだオープン前なので、大きな問題にはなってないけれど、精神福祉という多様性を大事にする業界で、その「体育会系」「男社会」という考え方を持つ人は、恐らく遅かれ早かれ壁にぶつかる時が来る。なぜならとりわけ人間関係に敏感な人達を相手にする仕事だから。
利用者さんはスタッフの部下ではないし、ましてや奴隷なんかではない。言いなりにはならない。だって人一倍敏感でわがままで、今まで満たされなかった甘えたい気持ちを不健全な形で爆発させた状態で出会うのだから。そしてそんな扱い難い状態でも、たとえ発達障害があるにせよ、精神疾患があるにせよ、人間として同列である事には変わりがない。そして一人一人を見て一人一人の特性を理解し、受容し、その人らしく生きる為、足りない部分を補いつつ、出来るところを損なわないよう、支援し、やる気を引き出しながら支えていく、しなやかな姿勢が求められる。そうでないとトラブルし、当然のように行政に通報されたりする。(精神福祉の利用者さんはクレーマー気質の人も多いので、結構あるある。)
それらが「YESマンが当たり前」「マウント思考」「自分だけが正しい」という価値観の対局にある事に気づき、価値観や考え方を変えていけるのは本人しかいない。
私があえて何かを言ったり傷つけたりする必要はないし、そうする権利もない。気づくべき時に気づき、学ぶべき時に学べば良い。それだけのこと。
だから私は出来るだけ自分が機嫌よくいられるよう努め、相性が合わない人とは安全を担保できる距離を取りながら、人間関係を円滑にするためのツールとして、便宜上形式的に何を言われても受け入れ、何を言われても謝罪し、でも内面は客観性を手放さずに自分の心を守りながら、相手の学ぶべき時が来るまでやり過ごし、淡々と就業時間まで自分の仕事をやりきる!それだけ!
はー!早く利用者さんが来て稼働しないかな!
体育会系で男社会のオッサンと2人きりは息が詰まる。
てか、早く稼働できるように頑張ろう。
ということで、今週の残り一日頑張ろう😊
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