「習慣化」の先にあるであろう とある推測の話
<おじさんDX Vol 71>
本日は私が思っている事についてです。
それは「習慣化」です。
目的を持って成し遂げようとすると
出てくるのが「習慣化」
最初は勉強を行ってもなかなか進まない。
苦しいときもあるでしょう。
日々、モチベーションの維持が大変だと思います。
そのハードルを越えると「習慣化」します。
得た知識などは、やがて大きな武器になるのです。
この習慣化というのは、「意識をしないで行っている」と、
解釈されている場合もあります。
実際は、どうなのでしょうか?
例
この場合だと、こう対処した方がいい
あの場合だと、あのように対処した方がいい
この場合は、こうするべきだ
対処方法や理論、知識を習得し、
日々鍛錬している内に「習慣化」に到達。
私は、その領域すら到達していない事が多いです。
それでも、数少ないながら
「習慣化」した事についてこう思いました。
習慣化は、無意識の場合もありますが、
行っている(た)事象については、
「途中途中意識をしているのではないか」
「行った事についても意識しているのではないか」
その場で「出来た」「出来ている」と気付いています。
実は、この「習慣化」の先があるようなのです。
「天然流」もしくは「自然流」と私は名付けています。
例
「いつの間にか、家の鍵を閉めていた」
「いつの間にか、扉を閉めていた」
「いつの間にか、電気を消していた」
こんな事ってありませんか?
(もしかしたら、おじさんの記憶が...)
あくまでも、私の持論です。
「習慣化」でほぼ無意識なのは、初動のみ
継続している内に初動がほぼ無意識でハードルがさがる。
「やろうと思って、行っている」
「スタートすれば意識下で行っている」
それに対し
「天然流」もしくは「自然流」は
「やろうと思っていなくても いつの間にか行っている」
「やろうと思っていなくても いつの間にか事が終っている」
終始無意識なのです。
同じ事では?と思われるかもしれません。
この考え方が、とあるジャンルで最強なのです。
「意識せずに」「いつの間にか」対処していた。
「意識せずに」「いつの間にか」このように対処していた。
「意識せずに」「いつの間にか」にこうしていた。
『いつの間にか対処していた(出来ていた)』と
後になって気付くのです。
「脊髄反射みたいな反応」と言えば簡潔かも知れません。
「習慣化」の先には、まだ道がありそうな気配です。
そんな おじさんの話でした。
この記事が参加している募集
🍀駄文を読んで頂き誠にありがとうございます。 ✅1.ガリガリ君の購入資金に充てます。 ✅2.ボンコツな愛車の維持費の足しにします。 ✅3.神社のお賽銭か盲導犬に募金します。