最も日本的な芸術とは
今日、私は近くにある日本庭園に行き、秋の紅葉を見てきた。その庭園で紅葉を見るのは初めてであったが、その美しさに感激し、日本の芸術的感性の威風堂々なる姿を体を持って体験した。
しかし、私がその紅葉を目の当たりした時に直感的に思ったことがある、それはこのいかにも偉大なる紅葉の美しさによって、私はその奴隷になっているのではないか?ということだ。
私はなぜそのように感じた理由はやはりその偉大さ、壮大さに起因している。今日見た紅葉もかように壮大なるものであったが故に、私はそれについて言葉を失い、ただ見つめるだけであった。
何の考えも頭の中に無く、ただ美しきものを見つめる。このことは一見すると芸術が人間に対して与えることが出来る最も価値あるものだと表現できるかもしれぬが、私はそうは思わなかった。
そこには美しきものという主体、それを見ている我という客体(”主客関係”)を感覚上で認識することができ、また客体の方からは主体に対して何も手を出すことが出来ぬ(これは私は先に述べた、”紅葉を見ることで言葉や考えを失ったことである”)完全なる奴隷関係の性質も感じることが出来た。
よって、私は結論として今日の壮大なる紅葉は最も日本的な芸術ではないと確信したのである。であるならば、最も日本的な芸術とは何か?。それは侘び寂び、言い換えるならそれを見る人間が自らの考えを巡らせ、その考えの深さが底知らずの深淵さを持っているものである。(侘び寂びはこの言い換えの言葉よりはるかに意味あるものだが、ここでその説明は避ける。)
完全なる不完全な芸術、何か見る人間が自身の思想を持って解釈し、又それを高めることが出来る芸術こそが最も日本的な芸術であると私は感ずる。そこには芸術と人間との主客関係はすでに寂滅しており、芸術は人間の中に入り、人間が芸術の中に入ることで、それらは真の同一のものとなることが出来る。これが可能な芸術こそが日本国で一番に尊ばれるべきものだと思う。
日本民族はその人間が達しうる最も高度な思想を物質化し、芸術に移し替えることが出来た世界で唯一の民族であろう。