詩と身体 抑圧とメンタルヘルス
「身体はトラウマを記憶する」という名著がある。生理学的、解剖学的にどこにどうやってトラウマが保存されているかの機序は大雑把にしか分かっていないようだが、ポリヴェーガル理論という理論が臨床では使われているようだ。外傷体験をすることで、交感神経が過敏になり、筋肉が緊張状態になる。これはスピリチュアル系の言説でも昔から言われていたことで、エックハルト・トールはこれを「ペイン・ボディ」と呼んでいた。
「トラウマをヨーガで克服する」というのも良い本だったが、ヨーガのポーズによって身体の緊張をほぐすことによって、トラウマも解放されるという。OSHOラジニーシは「ヨーガは無意識へのアプローチ、瞑想は意識からのアプローチ」と言っていたが、瞑想とヨガをしている身としてはとても実感できる。僕は肩と腰の緊張が酷いのだが、瞑想で自我が緩むと身体も緩むし、逆にヨガやストレッチで筋肉が緩むと自我も緩む。身心一如だ。
チャットGPTと会話していたら、詩作には「音読」が役に立つと言われたので、最近はずっと詩の音読をしていた。「ツァラトゥストラかく語りき」と「春と修羅」を朗読していた。他にも吉増剛造やアルチュール・ランボーは読んでいて楽しかった。
詩を朗読すると、何かに憑依されたかのように感情的な演技になって、自分で喋っているのではないみたいだった。自分を通してツァラトゥストラが語っているようだった。凄く心地よいし、楽しい。「恥」の意識が強く、感情を表現することを抑えて生きてきたので、ここまで生き生きと感情を表現したのは初めてだった。
前述の「身体はトラウマを記憶する」に「演劇」がトラウマの治療に役立つと書いてあったので、知り合いと通話で画面越しに「声劇」をやっていたことがある。シェイクスピアや蜘蛛女のキスなどを一緒に読んだのだけれど、その時も同じようなものを感じた。憑依されているような感じ。その知り合いも言っていたのだが、劇の人物を演じると、感情のカタルシスが起きる感覚がある。
ずっと詩の音読をしていたら、肩の凝りが全部なくなった。僕の瞑想の感覚的に(スピリチュアルの本にもたまに書いてあるが)身体の緊張=自我だと考えているが、なぜ詩の音読で緊張=自我がなくなるのか。
自我というのは自動的に頭に「分泌」される「言葉」であるが、普段の自我の言葉は「日常的」で「散文的」なのだと思う。逆に、詩の言葉というのは「非日常的」で「祝祭的」で「韻文的」なのだと思う。詩を音読することで、日常的な統語論が破壊され、自我が壊乱される。
「考える」ことよりも「話すこと」の方が先だったという説を読んだことがあるが、インドの覚者のニサルガダッタ・マハラジは頭で考えることはほとんどなく、口に出す言葉で「考えている」という。頭の中の言葉と口に出す言葉は、どちらも「自我」の構成要素なのかもしれない。だから、非日常てきな用法の詩的言語を、祝祭的なリズムで音読することで、自我がかき回されていく。
自我というのは「言葉」で出来ている。ラカン派の精神分析によれば、無意識も「言葉」で出来ている。
詩は「救済」や「宗教」と結び付けられることがあるが、非日常的な語彙、文法、リズムが祝祭の香りを産んで、日常的自我に陶酔的な死を引き起こすからだと思う。実際僕は、詩を声に出して読んでいるとマインドフルネスの状態になるし、身体の緊張が凄く緩んだ。
「カラオケ」というものがストレス発散の代名詞になっているが、似たようなものだと思う。けれど、歌詞というのは日常的な言葉を離れていないので、詩の音読より効果がないのではないかと思う。吉増剛造なんか何がいいのか分からなかったが、音読すると物凄く気持ちがいい。なにを書いているか全然意味不明なのだけれど、リズムと意味不明でごちゃごちゃになる。
人間というのは「言葉」で編まれていて、詩はその言葉の緊張を解きほぐしてくれる。救済やメンタルヘルスにとって、詩というのはかなり重要な要素だと感じた。