読書をする意義 情報による変容
お坊さんが法話で「お経というのは仏様の話じゃなくてあなたのことが書いてるんですよ」と言っていた。確かにそうだ。般若心経には「この俺」が「色即是空」であることが書かれてある。お経というのは訳の分からない漢字の並びではなく、「この俺」の真実が書いてある。
東南アジアの仏教の原点回帰運動で、「法話だけで悟らせる」というのがあるらしい。アドヴァイタというヒンドゥー教にも「法話を繰り返し聞いて悟る」という伝統がある。修行をしなくても「情報を得る→悟る」ということが可能であるらしい。僕も仏教において「情報」は大事だと思っていて、例えば「無常」についての法話を毎日聞いていると、無常についての理解はより深まると思う。禅宗では「提唱(法話)は毛穴から染み込む」と言われるらしい。知らないうちに「身につく」という事だと思う。「情報」で人間は「変容」することができる。
恋人と自分が愛着障害なので、一緒に勉強をしている。自分と向き合うのは怖いので、あんまり気が乗らないのだけれど、人間関係に結構響いているので本を読んでいる。「自分の病気」についての情報を得ることでどうなるのか。
本には「親の育児が子供の将来の人間関係に与える影響」が書いてあったのだが、それを読んだ翌日に、親への怒りが物凄く噴き出てきた。「もう声に出した方がいいな」と思って、今まで溜まっていた親への恨み節を部屋で一人喚いていた。喚くとスッキリした。自分で知らなかった部分の情報を得ることで、その周辺の記憶が活性化されて、記憶に付着している情動が出てきたという感じだった。
恋人も、カウンセラーにキレて途中で帰ったり、精神科の医者に物凄く怒ったり、普段ではしないようなことをしていた。勝手な解釈かもしれないが治療者に「親」の像を転移していて、それに怒っているのかなとか考えた。
道元禅師の言葉に「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり」というのがあるが、愛着障害の新書という「お経」を読むことによって、抑圧が解除された気がする。
ただ、僕はマインドフルネスをしているから、そのまま「親への恨み」が固着してしまうということはなかったが、瞑想をしてなければ「毒親」について恨み続ける人になっていたかもしれない。良薬は口に苦しだと思った。
「自分の病気」という核心的な書物を読むことで、変容が起きる。核心に近づけば近づくほど、変容が起きると思う。「無常」というのは人生の核心だけれど、無常について書いてある仏教書を読めば人は少しは変容する。パスカルやニーチェなんかも核心に近いと思うけれど、「この俺」の話をしている本は、かなり効き目があると思う。沢木興道なんか特にそうだけれど、仏教というのは「ここに生きている今のこの俺」の話をしているので、かなり変容が起きやすい。哲学書なんかは普遍的な内容が多いので、あまり読んでも人生に影響はないと思う。認識の条件とか言葉の本質とか「この俺」とはあまり関係がない。
今気づいたけれど、パスカル、ニーチェ、バタイユといった僕の好きな思想家は「この俺」の話をしているから好きなんだ。他人事じゃない話。ハイデガーやウィトゲンシュタインなどは「この俺」の問題を「存在」や「言葉」という普遍的なもので語りなおしていて、当人はそれで変容するだろうが、問題意識が重ならないとあまり影響は受けない。
僕は小説や詩集なんかも最近は結構読むけれど「素晴らしい!」で終わってしまうことが多い。他人の生き様を見て憧れて「変容」する人もいるのかもしれないが、僕の場合は「お前はこういう状態なんだぞ」と書かれてある本、例えば病気の本、仏教の本、パスカルやニーチェの本などを読むと、神経の配列が変わった気がした。
「情報を得る」ということは大切だと思う。人は「変わる」ということにとても強い抵抗を示すけれど、情報を得るだけで変容するならば、お得だ。