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自分のしんどさに閉じこもらないこと。難しいけど自分を救うためにも必要なのかもしれない
去年のお正月、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」スペシャルを見ながらふと考えたことがあります。
それは、主人公で妊娠中のみくりと、夫の平匡が、心身の不調や仕事の忙しさなどによって思うように家事ができず、お互い険悪になってしまったシーン。
みくりは、つわりの苛々もあり配慮の足りない平匡の一言にキレてしまいます。
しかしその後、みくりは色々な人と話す中で、「平匡さんにはこんなふうに愚痴を共有できる相手がいないのかも」と、弱音を吐いてはいけないという男らしさの呪いにふと気づきます。
それから彼女は「つらかったね」と平匡さんに寄り添うというシーンでした。
私はこれを見て、
「こんなふうに、自分のしんどさに閉じこもらずに、相手のしんどさにも思いを馳せられるってすごいことだなぁ」
と感じました。
同時に、こういうことができないと誰かと暮らしていくなんて無理なんだろうな、私にはできないかもしれない、とも。笑
私は妊娠を経験したことはないですが、妊娠中の辛さって、きっと色々あるんだと思います。
そんなとき、
「つわりでしんどいのに、夫がこんな配慮のないことを言ってきた💢」
という怒りをもつことは当然あるでしょう。
世の中に共感されやすいからこそ、SNSなどでもよく見かけますし、女性同士でもよく話すことなのではないかと感じます。
しかし私がすごいなと感じたのは、その愚痴を話したあと、みくりが「平匡さんにも別のしんどさがあったのかも」という見方ができたことです。
これって、かなり難しいことだと思うんです。
妊娠に限らず「私の辛さを分かってほしい」「どうしてそんな簡単な配慮もしてくれないの」「こっちばかり我慢しているのに」といった気持ちを相手に押し付けてしまうことは、近しい関係であればよくあることではないでしょうか。
自分自身の両親を見ていて、押し付け合いになっているなぁと感じることもよくあります。
私にもその気持ちは痛いほどわかります。
きっと、誰も自分の気持ちを分かってくれない孤独を感じたり、余裕がないと起こる気持ちなのでしょう。
だから、みくりがあのように思えたのは、周囲に話せる人がいたから、味方になってくれたからという側面は大きいと思っています。
ただ、「自分のことをわかってほしい」「我慢や辛さを理解してほしい」という気持ちばかりになることって、ブラックホールみたいだなと感じるのは私だけでしょうか。
相手にぶつけてもどんどん吸い込まれていくような、そんな途方もない虚しさ。
自分の辛さばかりに着目していると、その辛さがどんどん肥大化して理不尽なものに見えてくる感覚があります。
そんなとき、「相手にも自分の側からは見えないしんどさがあるのかもしれない」という視点は、 関係を円滑にするだけでなく自分自身も楽になるヒントになるかもしれないと感じました。
「外側からは見えないしんどさ」って、きっとみんなが持っているはずです。
それなのに、関係が近くなるほど、自分の側から見えるものだけで判断して「私のほうがしんどいのに」となってしまいやすいような気がします。
また「名前がついている辛さ」「多くの人が共感できる辛さ」は力を持ちやすいような気もしますね。
今回なら、みくりの「妊娠中のつわり」。男性には分からないもので、みくりは「もっと理解してよ」と言うこともできたのかもしれません。
でもみくりはそれをせずに、まずは平匡のしんどさに思いを馳せた。
人のしんどさって比べられるものじゃないんだと思います。
名前がついているしんどさでも各々自分なりの辛さは違うし、まだ世間に理解されていないしんどさももちろん存在して、逆に理解されていないから辛い側面もあるのかも。
どちらのほうが辛いと主張するでも、理解を一方的に求めるでもなく。
お互いにフラットにしんどさをテーブルの上に出し合えるような関係を、人と築いていきたいなと常々思っています。
辛さの覇権争いをせずに、安心して自分や相手のしんどさを聞きあいたいのです。
そのために、自分のしんどさに閉じこもっていないで、相手にも私には見えないしんどさがあるんだろうなと思いを馳せること。
これができたら相手も自分も楽な関係を築けるのかもしれないと考えています。
今回はこのへんで。
何か少しでも気づきがあれば幸いです。
長々と最後まで読んでくださった方がおられればとても嬉しく思います、ありがとうございました🌹💐