
『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造』(著 熊代亨) 【追加note記事】
本記事はゆーろっぷ氏が扱った『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造』(著 熊代亨)への追加note記事である。
最初に氏の記事や書評を確認して頂けると本記事も分かりやすくなると思われる。是非ご覧ください。
1 本書の要約
本書は、「自己家畜化」というキーワードを用いて現代の歪みを表す。自己家畜化とは「人間が作り出した人工的な社会・文化・環境のもとで、より穏やかで協力的な性質を持つよう自ら進化してきた、生物学的変化」を指す。直感的には、戦争ばかりやっていた1~200年前から、今のような非暴力的で協力的な現代を想像すると分かりやすい。人類は長い期間をかけてセロトニンの増加やHPA系の縮小を通じて段々とこの「穏やかで協力的な性質」を備えてきたのである。
しかし、現在ではその自己家畜化を遥かに上回るスピードで文化が発展しており、肩身の狭い思いをしている人々も少なからずいる。例えば、学校ではより穏やかに変わってきている反面、子供の行動がより厳格に管理されるようになった。あるいは、普段の生活でも人込みやプレゼンテーションに際してもパニックに襲われず、HPA系の自己抑制を強く求められる。そして、それにそぐわない人間は矯正を受けて社会に適合あるいは隔離される。この「自己家畜化」と「早すぎる文化の進歩」による「恩恵と阻害」がどう折り合い付けられるかが本書の問題提起である。
〈参考・本書の目次〉
序章 動物としての人間
第1章 自己家畜化とは何か―進化生物学の最前線
第2章 私たちはいつまで野蛮で、いつから文明的なのか―自己家畜化の歴史
第3章 内面化される家畜精神―人生はコスパか?
第4章 「家畜」になれない者たち
第5章 これからの生、これからの家畜人
2 所感
本書は「自己家畜化」という医学・生物的な観点を軸に、急速な速度で成長する文化による社会課題を浮かび上がらせている。「自己家畜化」という言葉の字面が強いので、スマホ依存症などテクノロジーに飼いなされた人類をセンセーショナルに揶揄しているのかと思ったが実際は全く意味合いが違う。生物・社会学的な基盤を整えて書かれているので同じような嫌悪を持っている方々は安心して欲しい。
さて、肝心の内容に関してはやはり 「脳vs身体性」という大構造を意識する必要がある。本書では「あとがき」に少し書かれている程度だが、例えば以下の様なことを主張している。
未来を身体性に引き寄せたい、あるいは未来に身体性を顧慮させたい、そう願う者の一人です。そのように考えることなしに「人にやさしい未来」なるものを物語るのはどこかおかしい、そのように考える者でもあります。
我々は素晴らしい技術に囲まれた現代を生きているわけだが、そうであっても身体性からは(現時点では)逃れられない。それは行動形質にまつわる諸特徴も例外ではなく、その身体性を無視した文化による押し付けにより上記で示したような「不適合な人々」を苦しめているわけである。
よって、これを解決する第一歩は「身体性の再確認」であろう。雑に言えば、「もっと素直に、率直に世界を感じろ」ということだ。
それは「自然に還れ」といったノスタルジックな話ではなく、文化的・技術的発展がもたらす変化に適応する上で、人間が本来持っている感覚や行動形質に目を向ける態度のことを言っている。
単に便利な道具を増やせばよいという発想では「人にやさしい未来」は訪れない。むしろ、技術と身体性が調和するような環境こそが求められる。例えば、仕事や学習環境においても、ただ効率を追求するのではなく、人間が本来持つリズムや動きを考慮した設計が必要だろう。
今まで述べてきたことも所詮大河に垂らした一滴のようなものでそうは言っても「身体性の阻害」というトレンドには敵わないだろう。