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【海外赴任】ソニーの海外ベンチャーに参加して、人生で一番働いた話。お前達は、クレイジーだと言われて。
ソニーに入社して、電子部品の営業を10年行った後に、自分で手を挙げて、子会社のインターネット接続会社So-netの海外展開を行うプロジェクトに参加した。
きっかけは、当時社長の出井さんが、「ITは、隕石がユカタン半島に落ちた衝撃を世界に与える、インターネットに乗り遅れると、ソニーは隕石で滅んだ恐竜のようになる。」と言ったことだ。
会社がインターネット・デジタルの方向に大きく舵を切る中、電子部品
群れからはぐれるたびに、人生は展開する。反対を押し切ってする異動であれ、休学であれ。
20代後半から30代前半にかけて、香港・中国に6年間赴任していた。
仕事は中国の工場にVCDプレイヤー向けの電子部品を販売する仕事だった。
6年の間に、ゼロから数百億円のBizに成長し、私は、南中国の責任者として、深圳事務所の所長をしていた。
そして、出元であった電子部品の営業本部に帰任した。
今度は、IT用CD-ROMやDVD-ROMの光学部品を、台湾や韓国のITメーカーに販売する仕事についた
【海外赴任】資産3,000億円 オーストラリア大富豪の友人、彼の私生活と生き方から学んだこと
私は最近までオーストラリアに駐在していたのだが、その時に、大富豪と知り合うことになり、彼の家に招待されて、時々一緒にテニスをする仲になった。
その中で、彼の生き方から私が学んだこと、感じたことを皆さんとシェアしたいと思う。
彼とは、Gerry Harveyという人である。
有名人なので、ググると簡単に情報が出てくる。
彼は、オーストラリアで一番大きな家具屋と家電量販店の創業者/会長である。
TV
【海外赴任】Steve jobsのconnecting dotsを実感した話し
大学時代にNew York(正確にはお隣の州のNew Jersey)に語学留学をしたり、それに味をしめて、1年間日本の大学を休学してテネシー大学の経済学部に編入したり。
更には、帰国後、日本の大学を卒業する前の4ヶ月ほど、バンコク、インドからヨーロッパまでほぼ陸路で横断したり。(これは当時、沢木耕太郎の「深夜特急」という本に刺激を受けたため)
当時としては、かなり海外にかぶれた学生だった。
学生同
【海外赴任】中国でどぶ板営業をして、ぬかるんだ道にしゃがんで、トウモロコシをかじった話し。
ソニーに就職して、まだ3年しかたっていない頃、私は中国でとぶ板セールスをしていた。
カセットテープがすごい勢いでCDに代わっていく時代、私は、CDプレーヤーに使うレーザー部品や半導体を中国の工場に販売する仕事をしていた。
当時は、中国市場で外国企業が販売活動をするのが許されたばかりの時代で、本社からみても、中国にどれだけのポテンシャルがあるのかよく分からなかった。
香港販売子会社に赴任した私が
【海外赴任】海外で働いて、うんがついていた話し
入社3年目で香港赴任、中国市場担当になった。
仕事は、毎日中国の電機工場を訪問して、CD プレイヤー用のキーデバイスを販売することであった。
当時、先進国ではレコードに代わりCDプレイヤーが急速に普及していた。
順序で行くと、次は中国市場が立ち上がる予定であった。
中国市場黎明期、私は毎日のように、初見の中国電機工場を訪問していた。
しかし、CDプレイヤーが何であるかをまだよく理解していないケー
【海外赴任】深圳のバブルを目の前で目撃し、つかの間のチャイニーズ・ドリームを楽しませてもらった話し。
香港返還1997年からミレニアム2000年頃にかけて、中国・深圳はかなりのバブル状態であったと思う。
どんどん新しい高層ビルが建ち、街の人口も10年間で数十万人から3百万人にくらいに急増していた。
私は、中国工場にVCD (CDフォーマットで映像がでる規格)プレイヤーを製造するのに必要な、キーデバイス (光学部品と半導体)を販売していた。
1993年香港に赴任し、中国工場を訪問し始めた頃の中国
【海外赴任】第二外国語への挑戦|中国語編│ 赴任した国が英語圏でない場合、その言語を真剣に勉強するかは、とても大事な判断だ
いうまでもないことだが、海外で仕事をしたり、生活をしたりするのに、その国の言語は相当重要だ。
英語圏に赴任した場合は、なにも迷うことはない。
英語のレベルが低かろうが、高かろうが、英語を全力で勉強するのみである。
英語はとても学びがいがのある外国語である。
世界の共通言語であり、映画、音楽、ニュース、世界クラスのスポーツ等、日本にいても英語を活用して最新の情報に触れたり、ワールドクラスのエンタ
【海外赴任】第三外国語への挑戦 |ベトナム語編|ベトナム語はきつかった、涙目で勉強した
私がベトナムに赴任したのは40台半ばの頃。
ベトナム子会社の社長というポジションでの赴任だった。
ベトナム語はそれまで全く触れたことがなかった。
(ホーチミンとサイゴンが同じ街の名前だとも知らなかった。。。)
既に自分のキャリアの中で、英語と中国語がビジネス用途ではネイティブレベルになっていたので、ベトナム語への挑戦は第三外国語としてであった。
海外営業のプロとして、現地のお客様と簡単な挨拶会