文章は、人の思考を固定化するもの。
思考は気体のように、ふわふわしたもの。
言葉は液体のように、人によって形を変えるもの。
文章は固体のように、表現を固定化するもの。
佐藤由美さんが書かれた書籍、
「書く仕事がしたい」にあった内容です。
この言葉が私にとって
とても的確な表現に思えて
ずうっと心に残っています。
お気に入りすぎて
自分の読書ノートにも記録しました。
だから、こちらの
noteにも記録しておきます。
昔から文章を書くことが
好きで好きでたまらなくて。
担任の先生との交換ノートは
誰よりも一番最初に
ノート一冊を使い切りました。
確かあの時はB5ノートを使っていて
先生が2~3行で終わらせる
コメントに対し(そりゃそうだ)
私は1ページ近くの分量で返していました。
大人になった今思うと、
読むだけで相当大変だったと思います。
しかもあの当時、
クラスメイトは30人近く居たはず。
……先生、ごめんなさい。(笑)
つい最近まで、文章は素敵なもので
色んな人に思いを伝えられて、
色んな感情を沸き立たせる起爆剤、
みたいだなんて思っていました。
もちろん人を傷つけるような文章は
例え思考していたとしても
言葉にも文章にもすべきではない。
そういった類は例外として。
小説で紡がれるような
正の感情や負の感情の言葉。
登場人物の心の揺れ動き。
それにより生じる仕草一つ一つ。
思考の過程にその場の空気の温度まで。
文章って、美術で言う絵の具みたいな。
どんなものでも表現できて、
それは鮮やかさを伴ったり憂いを伴ったり。
とにかく文書ってすごい!
なんて万能!優秀!だなんて思ってたんです。
だから文章にすることで、
人の思考を固定化する、なんて
考えたこともありませんでした。
そんな私ですが、
著者が書いた一文に触れた途端
あ、そうだ。
あっけなく納得しました。
「文章を書くことで、
思考は一時的に固定されて"固体"になる」
その後に、こう続きます。
「固体にするというのは、
言い換えれば"物語化"することでもあります」
「だけどときどき思うのは、
この流れゆく言葉たちを
ほんとうにこの物語に押し込めて
良いだろうか、ということです」
私が万能選手だと思っていた文章は、
人の思考を(一時的に)固定化し
その余白を狭めてしまう。
言葉を紡いで紡いで文章にするほど、
イメージは精緻で細やかなものになり
そこに疑いの余地はなくなる。
"赤いりんご"と言われて、
青りんごを思い浮かべることが
なくなるように。
排他的というか、一種の排除というか。
だからこそ小説を読んでいると
頭で映像のようにイメージすることができ、
それが小説の楽しさなんですけどね。
言葉が想像の範囲を狭めるなんて、
考えたこともなかったな、と。
こういう考え方に出会えるから
やっぱり読書はいいな、と。
あ、でも、文章の良い点も勿論あって。
その点については次のように書かれています。
「ーーー固体になった文章は、
時間も空間も超えて人に差し出せる」
……とっても素敵じゃないですか?
まさにそうですよね。
読書している私が触れている物語は、
10年以上前に出版されたものもあって。
それを著者が作り出している時間は
もっともっと前にある訳で。
でも、時間も空間も超えて
私たちは本(文章)を通じて
その考えや表現に触れることができる。
あー、やっぱり文章って素敵だな、って。
万能選手ではないかもしれないけれど、
私の心を動かすには
十分すぎるくらいロマンチック。
そしてこれからも私は
色んな文章に触れて
色んな文章を書いて
心を動かし、動かされたい。
そう思ったのでした。
ちなみに今は、
こちらの本を読んでいます。
最近、文章や言葉に関する本ばかり
読んでしまっているので、
(悪いことではないと思うけど)
そろそろ小説も読もうかな。
長くなってしまいましたが
みなさま、よい休日を!
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