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続『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』【基礎教養部】

先月に引き続き、阿部幸大の『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』について、何か書いてみようと思います。他の方が書いてくださった記事も(後で)以下に載せておくので、合わせて読んでいただけると幸いです。この記事を書く前に、Takuma Kogawa氏の記事を読んでしまったので、これから書く内容も影響を受けてしまっていると思います。

有名な戸田山和久氏の本『論文の教科書』を含め、恥ずかしながら僕はアカデミックライティング関連の書籍に目を通したことがなかったので、この本の「まったく新しい」要素が結局何だったのか、分かることができませんでした。僕はただ、書き方の大枠を学びました。より普遍性のある書き方論を展開する為か、小手先のテクニックが全然載っていないのも本書の特徴だと思いますが、そこは他所を読むか又は自分の分野の論文を読んで、補完するべきなのだろうと思います。

しかし売れているだけあって、前の記事にも書いたように読み易くはありました。一緒に記事を書いているメンバーとお話ししたときも、段落分けが細かくされているので、レイアウト的にも見やすいのだろうという指摘をされ、確かに、と思いました。理系出身のTakuma Kogawa氏(上記参照の記事)によると、「本書は人文学をメインに据えているので全く価値が無かった」そうですが、僕も一部これに同意しようと思います。なぜなら理系の分野では、論文(いわゆるレビュー論文を含まない、新規性のあるものを指す)を書く上で(書いたことはありませんが)、やはり何かそこに疑問文がないと成り立たないという点で、本書の提案する「新しさ」の一要素と相反すると思ったからです。また、本の中で述べられる「アカデミックな価値観」も特に理系分野と違いがあると思いました。

本の中で、人文学は未開拓の領域に足を踏み入れるというより、これまでの常識を塗り替える作業にこそアカデミックな価値が眠っていると主張されています。これは、理系分野の一部だとあり得る話であり、一部だとあり得ない話です。

理系といっても、実験によって正しさを担保している自然科学なのか、現象論ではないフォーマルな素粒子論もしくは数学のような、論理のみで正しさの保証される分野で違いがあります。前者は実験によって仮説を立て、実験によって確からしさを確立し、実験によって反証もでき得ます。逆に後者は、そもそも実験のしようがなく、正しさの担保は別のところ、論理にあります。

数学は、より固く規則の確立された論理によって組み立てられているので、その中では一度真であることが証明されたら覆ることが無く、反証可能性がありません。(勿論証明が間違っていれば、反証はできますが)
数学より緩い、「フォーマルな」素粒子論は、より根源的な理論を完成させるべく、数学的な枠組みを作り上げていくという性質上、現実世界の現象を直接的には取り扱わない、もしくは現在人類の持ちうる技術によって実験検証が不可能である理論を取り扱います。「数学的」と言っている以上、まだ厳密に数学で定式化されていない部分も多く、この意味で数学より「緩い」です。これも反証可能性は数学より緩いものの、ないと言えます。

では、数学的にも定式化されてない部分を含み、実験とも切り離されたところにあるフォーマルな素粒子論は一体何によって正しさの担保がされているのだろうか、いい加減なことを言っているだけなのではないのか、と思われるかもしれません。僕はまだ物理の学部生なので、この辺りの高度な分野に最近ようやく片足を突っ込めるぐらいまで到達したぐらいですが、物理としてはやはり半分ぐらいいい加減なことを言っている気がします。実際にそう言っている専門家も複数人見かけたことがあります。
フォーマルな理論はその一部で(極限を取った状況で)既存の物理法則だったり実験結果を復元できるかどうか、という整合性のみで正しいかどうかを判断されます。また、数学的に理論の中で矛盾が起きていないかどうかも「正しい」といえるかどうか関わってきます。

元の話に戻ります。人文学は未開拓の領域に足を踏み入れるというより、これまでの常識を塗り替える作業にこそアカデミックな価値が眠っていると阿部氏は主張していましたが、自然科学(数学を除く)語に翻訳すると、未開拓の領域に足を踏み入れる(されたことがない採集・実験・理論の構築をする)ことも勿論大事であるし、既存の知識を再検証することにも同等の価値がある。これまでの常識を塗り替えるのは、ここまでに挙げた作業の産物である。こういう風にいえるのではないでしょうか。


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